カイロプラクティックの歴史

中垣 光市 DC



脊椎アジャストメントとカイロプラクティック哲学(122号掲載)

D.D.パーマー(以下、D.D.)は、脊椎マニピュレーションが数千年にわたって存在してきたことを躊躇なく認めた。彼の貢献は、特定椎骨アジャストメント、後の業界並びに臨床哲学の発展にある。そのアジャストメントのコントロールを彼は次のように述べている。

カイロプラクティックの原理が展開された基盤となる基本原理は新しくない。それらは背骨と同じ位に古い。私は、その声明を印字と口伝えの両方で繰り返し述べてきたが、いま最も強調して繰り返す。私は、亜脱臼した脊椎を元の所に戻す最初の人物ではない。何故ならば、この技能は数千年にわたって行われてきているからだ。しかし、位置を変えた脊椎骨を、棘突起と横突起を梃子に使って正常な位置にラックするのは私が最初であること、そしてこの基本的事実から、治癒技能の理論と実践に大変革を起こすと運命づけられた科学を創造することを主張する。

棘突起と横突起を梃子に使って不整合な椎骨を整合する最初の人物であるというパーマーの主張は討議と熟考の余地があるかも知れない。ドゥチェインバーの1887年版辞書が同様のことを述べていて、D.D.がこのことを知っていたかはわからない。ラックという言葉は、取り分け、歯車か刻み目のあるレールを意味することを知られるべきだ。パーマーは椎骨のアジャストメントを時計の歯車か機械のギアを上手く噛み合わせるように記述していた。これは、可動が制限された関節を治療するために、非特定的なマニピュレーションが用いられるのに対して、特定的に正確な調整を行う手順を述べている。

D.D.は、また上部脊椎の重要性を高く評価して言った。カイロプラクティックの治療経験が増えれば増えるほど、より多く研究して、この課題についてより多くを知って考えるほど、上位5胸椎と頸椎を任せてもらえたら、患者の体の他の部分はお好きなようになさろうとも、自分はそれらに触れず、患者に病気を切り抜けさせられると確信する。

リラードが患った障害は、骨が神経を圧迫するという例であり、この典型的理論の枠組みが規範としてカイロプラクターたちの考えを支配することになった。後に、1902年までにD.D.は、カイロプラクティックの思想を支配するようになり、骨が神経を圧迫するという考えに益々集中していった。1903年まで、D.D.のカイロプラクティック理論に最初の大きな変化は現れず、1904年まで「内在知性」は公にされていない。 

D.D.は、単にこれらの理論を神経系と、人体固有の生来の治癒能力を意味する内在知性とかの概念に方向づけたのだ。D.D.は、神経系を内在知性が流れて機能する通り道だと主張した。彼の哲学は、全ての生命に内在知性が備わっていること、及びこの力が身体的健康の構成と維持を担っていることを述べている。カイロプラクティック治療の目的は(サブラクセーションが原因で引き起こされた)神経系への干渉を脊椎アジャストメントの方法で取り除くことなのだ。これが内在知性を最適の能力で作動可能にさせて、神経系が治癒を高めることが提案された。主流派のカイロプラクターたちは内在知性を、霊的生命力ではなく、身体に生来備わる治癒力と見ている。

D.D.は磁気療法の理論を採用して、それをボーンセッターのサブラクセーションの概念と組み合わせたと思われる。これが、不整合な椎骨が内在知性の流れを阻害して病気を起こすと提案したヘルスケアの一形態になった。

整合性を修復された解剖学的構造は、それ自体をより良く、より機能的に形状を改善するものなのだとD.D.が提案したこと、そしてこの骨学的構造物に掛けられるストレスが形状を決定するとD.D.が予想した整形外科的概念においてもD.D.の考えはユニークであった。

次号に続く。


トーマス・ストアレイのミステリー(119号掲載)

1902年に若いB.J.パーマー(以下、B.J.)が無資格医療で起訴されて、精神的サポートを必要としていたときに、D.D.パーマー(以下、D.D.)がダベンポートを去った少なくとも表面上の理由であったトーマス・ストアレイの神秘的な失踪に関する記事をD.D.自身が1905年の広報誌カイロプラクターに載せている。その話は後に地元紙ダベンポート・デモクラット・アンド・リーダーで再び語られている。

ミネソタ州デュルース出身のストアレイは1901年にD.D.に師事した。D.D.が胸椎と腰椎に限ってアジャストメントを教えていた頃に、学生のストアレイが頚椎をアジャストするための木槌と楔を考案した。ストアレイはこの方法をダン・リースランドに教え、それをリースランドはミネソタ中に広めた。失踪する前にストアレイはデュルースで非常に大きく繁盛していた。

まもなくストアレイは再び新聞に出る。今度はアジャストを受けて約1時間後に患者が死亡したのだ。このときストアレイはロサンゼルスで開業しており、まだ木槌と楔のテクニックを使っていた。彼は正統でないテクニックを他にも使っていて、その中には拘束具か絞首索を用いて天井から吊るし、患者の体のあちらこちらに優しくとかとかでなく、重い木槌を用いる方法が含まれていた。またストアレイは約一年前に患者虐待の告発で逮捕されたが、罰金で済ませたことを同紙は報じた。その患者は、絞首索で首から宙吊りにされて大槌で背中を打たれたということであった。

サン・バナディーノ近郊の農夫ドメニック・プレマスは、「腎臓と肝臓」を長らく患っていて、友人の助言でストアレイに診てもらいに来たのだ。5回の治療を受けてその最後が1907年10月1日で、妻が付き添った。彼女は報道陣に言った。ストアレイが彼女の亭主の脊椎の間に重い木製の錐を挿し込み、それを重い木槌でガンガンと叩いて拷問し、また両手を背骨の上に置いて上下にジャンプして、腰のくびれた部分に全体重を投げ掛けた。その早朝には、プレマスは歩行に問題無く論理的に話し、たまに木槌の痛みを愚痴っていた。ストアレイと一緒に15分居て、1時間後にプレマスは、治療の期間に妻と泊まる宿屋のベッドに寝そべっていたが、「錐」が押し込まれた個所に両手を当てて苦痛の呻き声を出し始めた。妻の介抱する間もなくプレマスは痙攣状態になり、叫びながら背中の痛いところに爪を立てた。遂には、叫び声を上げてベッドから跳んで降りて、床を転がり回り、数秒の内に死亡した。

 翌日、死因は結核による肺の出血と判明した。しかし、検死解剖の担当医は、被害者が受けた治療は「弱っている人には激し過ぎる」と確信した。同じ日にストアレイに対する医療条例違反で訴えた。逮捕を避けるためにストアレイはメキシコに逃亡し、1908年3月まで留まった。

B.J.はこの悲劇的な症例を用いてストアレイが使ったような英雄的な手段に伴う危険を描き出す。ストアレイの方法を強く非難する一方で、ストアレイを「人付き合いの良い、善人で、PSC卒業生」と評した。彼が就学した当時は学校が「頚椎サブラクセーションをアジャストする方法論を未だ明瞭にしていなかった」故に木槌と楔でアジャストする方法を考え出したのだ。

医療条例違反での逮捕を避けて1908年3月までメキシコへ逃亡した件についてどのようになったか定かではないが、ストアレイはカリフォルニア州で教育と臨床に関わっていた。彼の患者ですぐに彼の生徒になった者たちの一人がチャールズ・ケイルであり、ロサンゼルスカレッジオブカイロプラクティック(LACC)を1911年に設立した。

もちろん、競合校の出現はLACCの設立を待つまでもなかった。実際は競合校の乱立が妥当な表現であろうが、ダベンポートに戻って詳しく見てみよう。そしてサンタバーバラでD.D.に合流したオークリー・スミスとミノラ・パックスソンは、D.D.がサンタバーバラを去った後にどうなるのかも探ってみよう。 

続きは次号のお楽しみに。


争いの余波(118号掲載)

ハインリッヒ・マッセイMDとの論争がもとで仕組まれたと言われるH.H.ライリングの訴訟は1901年1月15日に却下されたのだが、訴追と民事訴訟の恐れがD.D.パーマー(以下、D.D.)の心に載し掛かっていたのは明らかで、D.D.の心理状態が彼の行動に現れてくるようなのだ。

B.J.パーマー(以下、B.J.)は、学位を授与される前からアイオワ、ミシガン、ウェスト・バージニアの各州でカイロプラクティックの臨床に関わっていたが、1902年1月6日の卒業を機に父親の学校兼併設治療所で臨床に携わった僅か3カ月後の4月16日、医療免許無しに治療するとか治すとか主張した咎で起訴された。

B.J.が法的闘争に晒されている最中のこの時期、驚いたことに、D.D.は自分の身の周りを全て片付けてアイオワ州を後にするのだ。D.D.は同様の法的処置が自分自身にも及ぶことを恐れたのかもしれないが、Thomas H. Storey, DC(以下、ストアレイ)の家族から緊急のメッセージが入っていたのだ。ストアレイは初期の卒業生の1人であり、突然の失踪なので、家族がストアレイの捜索を頼んできたのだった。

1902年5月、借金まみれのパーマースクールと併設治療所の指揮を任されたのは、創始者の息子、B.J.だった。僅か数ヶ月前に父親からカイロプラクティックの卒業証書を授与されたばかりで経験不足だった若いB.J.を満悦と悲痛の日々がこれから訪れるのだが、短期間で特別な才能の兆しがみられた。21歳にも満たなかったB.J.は、彼の父親への徒弟奉公の産物であったばかりか、旅回りの演芸催眠術ショーを運営していたハーバート・フリント教授の兄弟分であった。B.J.はD.D.が留守にしている施設の「マネージャー」として統治を掌握し、ビジネスの為の融資を集めて、数年で学校の経営を黒字に戻したのだ。

B.J.がパーマースクールの運営を掌握する一方、1902年6月にD.D.はアイオワ州ダベンポートを去る。1904年頃のB.J.の記述によると一年半程前の1902年にD.D.がストアレーの精神異常を治療にパサデナに向かったことが確認できる。ダべンポートから数日掛けてカリフォルニア州パサデナにD.D.は到着する。

友人で弟子のストアレイが精神障害を患っているので、捜し出して助けるというのが表面上の理由だったが、D.D.がダべンポートを立ち去った本当の理由は、アイオワ州における法的並びに経済的な困難ともっと深い関係があっただろうと思われるので、すぐにカリフォルニア州でもD.D.が法的問題に直面するのは皮肉なことだ。

B.J.が無免許医療で訴えられているときに、D.D.は親として我が子に精神的なサポートを与えないばかりか、自分自身へのとばっちりを恐れてアイオワ州を去ったのだとすれば、投獄された経験のあるD.D.にとって告発や訴訟の法的問題は避けたかったのだろうが、親子の愛情の機微に疑問が湧く。

D. D.は遂にストアレイを見つけ出し、その後、D.D.はパサデナを去って、カリフォルニア州サンタバーバラにカイロプラクティックカレッジを設立する。オークリー・スミスDC(後にナプラパシーを創設)とミノラ・パックスソンDC(初の女性カイロプラクター)が教員としてD.D.に合流した。しかし、1903年11月中旬にカリフォルニア州医療審査委員会から法廷に提出された「無免許医療」の告発に圧力を感じてD.D.はサンタバーバラを去った。

1903年の暮にダべンポートに戻ったD.D.は、若さと経験不足の理由でパーマースクールの留守を預からざるを得なかったB.J.と学校に関して同等合資会社の契約を結び、それは1906年5月まで至る。

さて、D.D.の出奔を止むなくしたストアレイの突然の失踪の原因である精神異常はどうなったのか、謎は深まる。

この続きは次号のお楽しみに。


衝突の火種②(117号掲載)

マッセイの論争は続く。「彼等を何と呼ぼうと構わない。クリスチャン科学者、磁気治療師、カイロパス、病気の祈祷師、予見者、夢遊病者、降霊術者、手相見、自然療法家、癌医者、整骨医。彼等は皆、最も底辺レベルの詐欺師達であり、売薬製造業者や宣伝を出している偽医者や研究所と見分けが付かない。その宣伝の印刷物によって自滅に追いやられた者もいれば、精神異常者保護施設に監禁される者もいる。この影響で心を病んでしまった不幸な人達を診る医師の経験は、危険の存在を告げ、我々の文明化された国におけるこの状態に対して掃討戦を遂行する…。

もう一つの標本が磁気治療師、あるいはカイロパスだ。覚えておいていただきたい。この怪物は、天国に有ると主張する卒業証書が自身に超自然な力を賦与すると断言していること。その様な戯言が受け入れられることはおおよそ不可能に思えるのに、それが事実であること。奴の死の谷に安堵を探し求める不幸な患者達に同情する…私の視野には結末が一つだけあり、それは同じ様な偽物の被害者にならないように、成長している世代に教えることだ。」

ひどく立腹したD.D.パーマー(以下、D.D.)は宣伝誌The Chiropracticの1899年度版を半分近くもマッセイからの非難に対するシステム的な反論に使った。彼等の公開論争は数年続くことになる。

シカゴ出身の青年H.H.ライリングがパーマースクールへ入学したのはマッセイの策略であった可能性がある。ライリングは1900年3月に500ドルの授業料を払うと、直ぐにD.D.をインチキ呼ばわりし始めた。学校敷地内から立ち去るようにD.D.が命じても、ライリングは授業料返却なしで退去を拒否したので、D.D.が警察に通報し、ライリングは逮捕された。しかし、D.D.は苦情書の提出を怠った故に誤認逮捕の責任で訴えられることになる。ライリングは、教育内容の説明を不正確に伝えたことでD.D.を訴えた。

ライリングの事件は、もう少し尾を引くことになるのだが、1901年、S.M.ラングワーシーとT.H.ストアレーがパーマースクールを卒業し、1902年にはB.J.パーマー(以下、B.J.)がパーマースクールを卒業する。

オークリー・スミスとミノラ・パックスソンとの関連で名前を出したソロン・ラングワーシーについて述べるに好いタイミングだ。ラングワーシーは、病気を無投薬で治す様々な療法を学ぶことに傾倒していた。

その一環としてミズーリ州カンサスシティのアメリカン・カレッジ・オブ・マニュアル・セラピューティックス(American College of Manual Therapeutics)から卒業証書を授与された。後にD.D.のアジャストメントを2週間受けた彼の妻の精神病の状態が変化したことが良い刺激となったのであろう。D.D.の日誌には1901年1月10日と1月17日に アイオワ州デュブーク(Dubuque, Iowa)のS.M.ラングワーシー夫人が記されていて、ソロン・ラングワーシーは友人であったD.D.に治療費の15ドルを支払った。その年の7月1日にラングワーシーは、カイロプラクティック・スクール・アンド・キュアでの教育課程に通常の授業料500ドルをD.D.パーマーに支払っている。

1902年1月19日付けでラングワーシーはB.J.に書簡を送り、「カイロプラクティックとオステオパシー」を教えていることを示唆するとともに、D.D.とB.J.並びにO.G.スミス達とのパートナーシップを提案して、同年の4月にB.J.はラングワーシーとアメリカン・カイロプラクティック・スクール・アンド・ナチュロパシック・キュア(American Chiropractic School and Naturopathic Cure)におけるパートナーシップについて話し合い、自然治療(Nature Cure)に関するラングワーシーの本を数冊携えてD.D.のもとに戻った。

D.D.の息子バートレット・ジョシュア・パーマー(Bartlett Joshua Palmer)はライアン・ブロック・ビルの地上階に在ったサントンジェ(St. Onge’s)百貨店で販売員として以前に働いていた。

B.J. は1902年1月6日に卒業した4人の内の1人であったが、B.J.はまた、学位を授与される前からアイオワ、ミシガン、ウェスト・ヴァジニアの各州でカイロプラクティックの臨床に関わっていた。

続きは次号のお楽しみに。


衝突の火種(116号掲載)

アイオワ州では1886年に医療条例が可決されていたが、施行されることは稀だった。その理由は、恐らく長期に渡って大衆が、医療分野のどの一部門からも排他的な権威を受け入れることを嫌がり続けていたからだ。正統医学は、やっと科学的な権威を樹立し始めたばかりで、医薬品の無作為比較試験が臨床的に初めて行われるのが、まだ40年近くも先のことなのだったから、多くの点で医療に関するD.D.の痛烈な論評は大衆の意識を忠実に映し出していた。

D.D.は「医薬と医師は必要であり、彼等なしではやっていけない(Palmer, 1896)。」と述べて医師達に多少の手加減をしたが、投薬はいつ適当と考えるか明示することを怠った一方で、D.D.は、原始的で危険な方法と彼が考えたことを強く非難するのに遠慮なく言葉細かくはっきりと言った。医学界の競争相手を激怒させたに違いない表現とは、つぎの通り。

①医学は科学か?

「医学は科学でないばかりか、最も実験的な当てずっぽうであろうかとの疑いが、市民の心の中で長年に渡って大きくなっている。病人を毒殺するこの古代のシステムは、合法的権利を持ち、我々の社会の救貧院、キーリー研究所(Keeley Institutes)、そして保護施設を彼等の毒の被害者で満たしている。被害者達は興奮剤、鎮静剤、更には麻薬を、使用継続せねばならなくなるか、更には自己壊滅するまで服用させられる。誤り導かれたこれらの不幸にも半分生きている具合の、医学の不適任さの証人達は何処にでも見られる。消耗性の病いと早死にが、医学の技能(とやら)を公然と侮り、より頻繁に起きている。最も単純な形態の発熱が家庭内に広まると、医学の科学(とやら)が幼少期であった二千年前と同様に、死と悲しみを残す。病人が楽になる為に普通の医学の同業者仲間のもとを去り、『偽医者』と貶される者のところへ行くのは全く不思議でない(Palmer, 1896)。」  

そして「有害薬物を使う医者達は、明瞭明白な言葉の代わりにラテン語で書かれた処方を出して人々を無知のままに保とうと願っている。その処方が何を招くのか、貴方が知っていたら、貴方はそれほど頻繁に快く進んで両目を閉じて、口を開け、何であれ医者が処方したものを飲み込んで、酷く恐ろしい結果を甘受することはなかろう。そのように命取りの毒を摂取することを止めて、自然な手段に助けを求めないのは何故だろうか? 誰かが病気なら、その人に毒を与える理由が何かしら有るのだろうか? 世間の人達は薬物の影響を受けることに辟易している。

人々は全ての医療法が『公衆を偽医者から守る』為に作られたと信じ込まされてきた。しかし、これら医療法は、本職の偽医者によって自分達自身の保護のために枠組みされているのが事実なのだ。これらの法によってどの学校の卒業生を医師として従事させるかを決め、これら好まれる学校からの卒業証書一枚で、害されてもいない者に毒を与えて虐殺することを専門とする、如何なる阿片中毒や酒浸りの偽医者でも保護される…。」

②法を活用せよ

「もしも医療審査委員会がその名の意味するものであるなら、この危険な医学の流行を我々に押し付けようと努力する代わりに、委員会の法律趣味を少しでも使って抗毒素の製造業者に対して禁止令を発するだろう…我々は、薬物の専売権と多寡が危険な当てずっぽうに過ぎぬ医学による支配統治がとことん嫌になっている…外科医達はヒトの構造を学習し、内科の連中はヒト以外の全てを学び…医師達、特に内科医の連中は自分達がろくに知らない薬物を更に知らない人体に注ぎ込む…特別な階級の学校でなく、人民を守る為に法律たるものは制定されるべきだ(Palmer,1897)。」

D.D.の強い言葉は、地域の異種療法医ハインリッヒ・マッセイ(Heinrich Matthey, MD)から同様に過度の論議にあった。地域社会から無資格療法家達を一掃することに傾倒していたマッセイは1899年9月17日付けダヴェンポート・リパブリカン誌に意見を述べた。

「我々の偉大な共和国でこの壮麗な新世紀が始まるときに、哀れを催すあさましい光景が出現した。一方では全科学分野における素晴らしい光明と人類への恩恵が見られ、他方では詐欺なんかを疑うこともない場所である病人の枕元においてですら詐欺行為の小細工をし続ける破廉恥なペテン師達が騒々しく勢揃い。我々は皆この悪事に気付いているが、今は実際にどうすることも出来ない…。」

続きは次号に。


初期の教育と理論(115号掲載)

20世紀初頭、ダヴェンポートでのカイロプラクティック教育課程の学費は500ドルで、最高の医学校での授業料に近い金額であったが、内容は僅か二、三ヶ月のトレーニングを要するものであった。パーマースクールの1899年卒業生で後に競合的専門域のナプラパシーを創始したO.G.スミスは、自身がD.D.から受けたカイロプラクティック教育を徒弟奉公程度に振り返っている[Beidman,1994]。初期のカイロプラクティック教育には原始的な性格が有った[Gibbons,1980]。

しかし、高次専門教育を比較する観点に於いては、当時のアメリカでは多くの医学校もまた原始的で、ほとんどはアメリカ合衆国とカナダでの医学教育に関してカーネギー基金へ提出された歴史的な報告書[Flexner,1910]の作者フレックスナー(Abraham Flexner,PhD)によって呪われていた [Keating]。ちなみに、米国の医学教育で2位と言われているジョン・ホプキンス(John Hopkins)大学学長のエリオットが医学部長に書簡を送って、なぜ筆記試験が無いのかを尋ねたら、医学生達の筆記解答が読めないからと回答が返ってきたのだ[Morgenthal,1988]というほどであった。

1897年にパーマースクールアンドキュアを開設したD.D.が1902年にダヴェンポートを去るまでに、D.D.の下で卒業したパーマースクール初期の卒業生は多くない。決して受講生が一回に3人を超えない[Palmer,1910]ようにしていたことは、卒業者の表を見れば明らかだ。D.D.は彼なりに最善の努力を尽くしていたのだと思われる。D.D.はカイロプラクティックの原理の解明と探求に懸命であったであろう一方で、D.D.の心を悩ます出来事が起きていた。ラングワーシーやB.J.に触れる前に、1900年に入学したライリング(H.H.Reiring)の事件に付いて述べたいが、その背景から説明する。

1886年に磁気治療家に成ったD.D.はアイオワ州バーリントンからダヴェンポートに移り、1895年9月18日水曜日午後4時に最初のアジャストメントを行なった結果、ハーヴィー・リラードが重度難聴から回復したことでカイロプラクティックが始まったのだが、理論説明を迫られていたD.D.は翌1896年に、摩擦熱を下げる為に全てのボディーパーツのマニピュレーション(アジャストメントに同義)を行なうと説明した。この最初のカイロプラクティック理論は、D.D.パーマーの9年に渡る磁気治療士としての臨床経験からの派生であり、炎症を病気の本質的な特徴と捉えていたD.D.は、変位した解剖学的パーツ間の摩擦によって体内に炎症が生じると提案した。

この最初の仮説と仮定の一式は明らかに機械的な視野から構成されていた。パーマーは人体を高級時計になぞらえて、自らを「人体の修理工」[Palmer,1897]と名乗っていた。やがて現われてくるのが調子の概念であり、D.D.はそれを自身の最終的なカイロプラクティック理論で最も重要と考えた[Palmer,1910,1914]のだが、1901年の時点でD.D.はまだ最初の理論を教えていた[Keating]。そしてD.D.は骨組織による神経圧迫に排他的な関心を持っておらず[Keating, 1995]、変位したとみなした解剖学的組織は動脈、静脈、神経、筋肉、骨、靭帯と関節を含めて、整合性を回復する為にマニピュレーションを行った。D.D.パーマーが彼自身の当時の用語であった治療(“treatment”)の為に受け入れた患者の症状の範囲はスティル(A.T.Still)のオステオパシーと同様に広範囲であった。

これら二者のマニピュレーション技能の理論的な基盤は別個であったにもかかわらず、1897年1月の広告紙で「癌の原因を見つけたら、血管と神経への圧力を緩和するのは簡単なことだ。血流が自由になり神経圧迫が取り除かれ、分泌と排泄が完全になるように人体を自然な状態に整えると、患者は良くならざるを得ない。言い換えると、もしも人体の組織機構の様々なパーツが全て正常ならば、分泌と排泄も完璧で、全ての不純物は裏口から投げ出されて、他に出口を見付けることは無い[Palmer,1897,p.2]。」と癌の治療を説明したD.D.の理論はオステオパシーの概念に酷似していた。

この続きは次号のお楽しみに。


最初のカイロプラクティック・ライセンス(114号掲載)

アメリカ合衆国に於けるカイロプラクティック法規の始まりは古く、1899年のイリノイ州医療条例にカイロプラクティックの合法的な臨床を許可する初めての法的文言が含まれていて、その法の下で「その他の治療家」を意味する〝OP〟として、「カイロプラクティック学校ダヴェンポート」卒業生ミノラ・パックスソン(1855-1950)が1904年5月24日にイリノイ州免許証438番を獲得した[FCLB] 。そして、O.G.スミスは自身の無投薬療法をカイロプラクティックと宣言して、パックスソンと同じ日にイリノイ州医療条例の下に免許証440番を交付されている。

ミノラ・パックスソンは、イリノイ州デュペイジで両親エイモスとエリザベスのもとで1855年7月11日に生まれた。エイモスは1868年に自分の農地を売って家族でロックポートに移り、郵便局長を4年間務めた。1875年にミノラはシカモア・スクール(Sycamore School)で教職に就き、退職してロックポートの実家近くの小学校に移り、低学年と中学年を受け持った。2年後にイリノイ州ブルーミントンで教職に就いたが、病気の母親の面倒をみる為に結局はロックポートに戻った。

D.D.パーマーのカイロプラクティック・スクール・アンド・キュアで1900年にカイロプラクティックの学位を受けたミノラ・パックスソンは、D.D.の2番目のカイロプラクティック・カレッジとして知られる、カリフォルニア州サンタバーバラのパーマー・カイロプラクティック・スクールで教育者としての人生を始めた。

 その後、ミノラは、パーマー卒業生のオークリー・スミス(O.G.Smith,DC)とソロン・ラングワーシー(S.M.Langworthy,DC)の協力を得て、1901年にアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック(ASC)をアイオワ州シーダーラピッズに共同設立した。また3人はアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック・アンド・ナチュラル・キュアをシーダーラピッズで始めた。 ASCに於いて、パックスソンがカイロプラクティックの学校では他に先駆けて産科学と婦人科学を教える最初の教授の座に就いた。またパックスソンは生理学と症状学の講義も担当した[PCC]。そしてミノラ・パックスソンは無投薬ヘルスケア提供者を規制したイリノイ州医療条例の下に公的な開業免許を得た最初のカイロプラクターであった。 

1905年にO.G.スミスがASCで顕微鏡下にリガタイトを発見し、ナプラパシーの科学的根拠を確証し、シカゴ・カレッジ・オブ・ナプラパシーの基盤を確立した数週後に、ミノラ・パックスソンは彼女のライセンスをシカゴに移した。よって、二人はもはやラングワーシーのアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック・アンド・ネイチャーキュアとの関係が無くなったと推測する[Zarbuck]のが妥当であろうが、1906年にパックスソンとスミスとラングワーシーの3人は、最初のカイロプラクティックの教科書「近代化されたカイロプラクティック(Modernized Chiropractic)」を共著した。

1907年頃、ミノラはシカゴ出身の土建業者ジョージ・ヒンクリフ(George Hinchliff)に嫁ぎ、1910年の国勢調査ではヒンクリフと彼の子供達と共にシカゴに住んでいた。1912年頃、一家はテキサス州ヒューストン地域に移った。東西テキサス鉄道のヒューストンから80キロ北東のリバティー(Liberty)郡にエクセルシオール(Excelsior)の街があった。エクセルシオール郵便局が1912年に設立され、その年の6月にはミノラ・パックスソン・ヒンクリフの指示で街の設計図面が描かれた。街を取り巻く深い森林の中を多数のトロッコ線路が縦横に走り抜け、ジョージ・ヒンクリフがエクセルシオールで製材所を操業した。 しかし、郵便局が1917年に廃止され、地域は捨て去られた。

ミノラ・パックスソン・ヒンクリフは95歳の誕生日を目前にして1950年7月19日にこの世を去った。最初の公的なカイロプラクティック・ライセンスを受けた上に、数々の「初めて」を成し遂げたミノラの功績は大きい。

さて、サンタバーバラのD.D.の学校はどうなったのか、またラングワーシーとアメリカン・スクールはどうなったのか、深まった謎を解くために一先ずダヴェンポートに戻るとしよう。この続きは次号のお楽しみに。


ナチュロパシーとナプラパシー(113号掲載)

二度ほど言及したナチュロパシーとは、「自然」、「非侵害的」、そして「自然治癒」を促進すると焼印された一連の療法を用いる擬似科学的な補完医療の一形態であり、そのイデオロギーと方法は科学的根拠に基づく医学よりも寧ろ生気論と民間療法に基づいている。一般にナチュロパシー療法家は医学検査、処方薬、ワクチン、外科手術に限らず、近代医学療法を勧めないが、ナチュロパシーの学問と療法は非科学的な考えに依存し、往々に事実に基づく長所に欠ける診断と治療に至る[ウィキペディア参考]と言われている。

医学の専門家達はナチュロパシー療法を非効果的で、殊によると有害と考え、その実践に倫理的問題をあげている。例えば米国癌協会と云った医学界からの非難に加えて、ナチュロパシーの臨床家達はニセ医者であることとインチキ医療行為で繰り返し告訴されている。長年に渡り多くのナチュロパシー医療家が、世界中の法廷で刑法責任を問われていて、ナチュロパシーを用いる療法家と医師達が自らを医学の専門家と称することを犯罪と見做す国もある[ウィキペディア参考]。

ナチュロパシーを非科学的と全否定するのは疑問に思える。 民間療法はリサーチが不足な一方、古来からの経験則を無視するのは勿体無い。未科学と非科学は異なる。 生命と健康を守るのが責務である医療家が、ドグマに支配されることが最も非科学的だろう。

さて、話をパーマースクールに戻そう。1899年卒業のオークリー・スミスDCは、1880年1月19日アイオワ州ウェストブランチの農場に生まれ、4歳迄は元気だったのに、猩紅熱に罹り次の16年は酷い発作を生き抜いたけれど、成長を阻害された青白く虚弱な若者であった。 両親のロバートとアンは裕福だった故、誰かれ知り合いが耳にした新しい医者という医者へオークリーを送り、異なる医薬を試し、あちこちの温泉も試したが、健康状態は良くならぬままだった。 そのオークリーがD.D.パーマーのアジャストメントを受けて楽になったのだ。   

18歳でダヴェンポートのパーマースクールアンドキュアに入学したオークリーは、やがて、もっと結合組織の治癒と修復に焦点を合わせた彼自身の理論をパーマーの脊椎サブラクセーション概念の上に発展させた。 B.J.と同じ程の時間をD.D.と過ごしていたと言われたオークリーだが、1899年にパーマースクールを卒業後に、自身を治療する方法を学ぶ期待から、19歳でアイオワ大学医学校に入る。 そこで彼は解剖学、生理学、解剖実習のクラスを取り、在学した二年間で二、三百の外科手術を見た。 

オークリーは自らが考案した脊椎のマッサージを弟ホートンに指示し、自身の背中の部分部分を手当てさせ試行錯誤を重ねた。オークリーは週5回の治療を3ヶ月受けて血色が改善し、ホートンが卒業するまでの2年間で夜遅くまで仕事ができるようになった。 奇跡の様に健康を取り戻したオークリーは将来にナプラパシーと呼ばれるテクニックを開発したのだ。 

1904年、O.G.スミスは、パーマースクールの後輩であるパックスソンと共に、同じく後輩のラングワーシーがアイオワ州シーダーラピッズに1903年設立したアメリカンスクールオブカイロプラクティックアンドネイチャーキュアの教員になる。

脊柱の結合組織の損傷が神経インパルスを阻害すると信じたO.G.スミスが脊椎靭帯の固縮と神経圧迫の関係をアメリカンスクールで解剖学的調査を続けたのは明らかだ。 1905年11月16日の午後11時45分、脊椎の接続組織に「リガタイト」と呼ばれる固縮した靭帯をオークリーが顕微鏡下で初めて観察した。ナプラパシーの科学が確立された瞬間であった。

1900年代初頭、O.G.スミスはボヘミアを長旅していたとき、古来から病気の治療に用いられナプラヴィットと呼ばれる背骨マッサージ術があることを知り、それを農夫が行うのを観察した。 O.G.スミスは、ナプラヴィットが自分の開発してきたテクニックに似ているけれども異なると判断したが、自分のテクニックを名付ける参考にした。

次号に続く。


D.D.の最初の弟子(112号掲載)

アイオワ州ダべンポートの商業地区では、手技療法で得た臨床結果をもって磁気療法士から変身したカイロプラクティックの父が、ライアンビルの4階に40床の施設で患者のケアに従事し、繁盛していた。カナダ生まれのドクター・ダニエル・デイヴィッド・パーマー(1845―1913)は自称ドクターであった。

また彼は新しい治療法であるカイロプラクティックを教えていたが、「磁気マニピュレーター」がDC達の養成学校運営に要する公式な資格は限られていた。 D.D.は1870年代から1880年代にかけてアイオワ州とイリノイ州の田園地域で公立小中学校教師として生計を立てていて、1897年から翌98年にかけてシカゴ独立医科大学の教員として名を連ねていた 

D.D.の最初の生徒はリロイ・ベイカー(LeRoy Baker)であったと言われている。 1897年にミズーリ州フルトンの列車事故で命を落としそうになってすぐ、D.D.は鉄道事故で負った傷害を治療するのに十分なカイロプラクティックをベイカーに教える。入学したベイカーにD.D.は触診を教え始めた。2週間から3ヶ月のコースであったが、そのコースをベイカーは終えることはなかったと言われ、卒業に関しては意見が分かれている。

1898年1月15日、最初のカイロプラクティックカレッジの始まりを記す日でもあった。同種療法医シーリー(William Ambrose Seeley MD)は、8週から10週間の教育に対して500ドルの現金をD.D.に支払い、最初に授業料を払ったカイロプラクティックの学生として歴史に名を残す。 1898年、最初の卒業生は2名、シーリー(William A. Seeley, MD,DC)とデイヴィス(Andrew P. Davis, MD,DO,Oph.D,DC)であった。 これらの初期のクラスでは、D.D.は4番から12番の胸椎をアジャストすることだけを教えた。

A.P.デイヴィスは、1835年3月10日に、ニューヨーク州アリゲイニー(Allegany)郡に生まれ、父は著名な医師で、学識深い学者であり当時の深淵な思想家として認知されていた。 デイヴィスは、1861年頃に医学の勉強を始め、最初に折衷主義的なシステムを徹底的に調査し、後に異種療法に注意を向けて、シカゴのラッシュ(Rush)医学校に入学し、1866年に卒業した。 約11年間たゆまず異種療法を臨床したデイヴィスは、同種療法の学習を開始し、オハイオ州シンシナティのパルティ(Pulte)同種療法医科大学を1877年に卒業し、同年に眼科学をも修めている。 

1879年頃、デイヴィスはテキサス州コルシカナ(Corsicana)に移り、その地で同種療法のパイオニアに成り、その地域で同種療法を好意的に受け入れられることに成功したのだが、過労と健康失調で休業せざるを得なくなり、その間、デイヴィスはニューヨーク市に行き、ニューヨーク眼科大学で6カ月のコースを受けている。1880年の春、デイヴィスはテキサスに戻って、ダラスに落ち着いた。 テキサス州ダラス郡で同種療法医学における最先端の医師の一人であった。 

自分の知識欲に相応する医学知識を獲得しなかったデイヴィスはもう一つ開口外科の特別コースにも参加した。 1898年にD.D.の下でパーマースクールを卒業し、テキサスに戻った。テキサス州で最初のカイロプラクティックドクターであろう。

A.P.デイヴィスは、西洋医学、即ち異種療法(アロパシー)の他に同種療法(ホミオパシー)でMDの学位を取得した後に、スティル(Still)からオステオパシーを勉学中にD.D.のカイロプラクティックに転向した。D.D.の下でカイロプラクティックを学ぶ前に、デイヴィスはMD、そして整骨医(オステオパス)であったと同様にナチュロパシーの医師であった。 D.D.に師事を受ける前にデイヴィスはオステオパシーの著作を2冊出している。デイヴィスとの広範囲な論争でD.D.は解剖学と生理学の専門的知識を示したが、デイヴィスは理論と適用で異論を唱えて、ナチュロパシーに傾倒していった。

カイロプラクティックのイデオロギー論争は続く。 次号をお楽しみに。


パーマー登場の社会背景(111号掲載)

1780年代から1850年代に渡って「正統医学」が「英雄医学」と呼ばれた頃、無謀な医師や危険な治療法よりも寧ろ患者のほうが英雄であった社会背景の中で、代替医療は花開いた。 この社会背景が有ったからこそ、カイロプラクティックの発祥が見られたのだが、同様にオステオパシーなど他の治療法が異なる理論体系の下で生まれた。「この社会背景」と言えば足りるのかもしれないが、100年も前のことなのだから、もう少し遡って歴史の流れと当時の社会的な気分や雰囲気とかに触れておこう。

蒸気機関による産業革命は、1770年に激化し、人々のライフスタイルを変え、結核と梅毒の蔓延とカイロプラクティックへの偏見を導いた。ヒポクラテスの時代から内科医も外科医も行なっていたマニピュレーションの有効性を説く意見も有ったが、「結核に冒された関節のマニピュレーションは悲惨な結果をもたらす。」と医師のポット卿(Sir Percival Pott)が報告したことも関係して、1795年から1895年、医者達は脊椎マニピュレーションを敬遠した。 そして米国では1858年の医療条例以後、ボーンセッターを全力排除した。 

蒸気機関車や蒸気船が水陸交通を容易にしたが、ガソリンエンジン発明は新たな産業革命を起こしていた。 相対性理論の発表までにアインスタインは少し時間を要するが、1898年にフロイドが精神分析に於いて独創的で影響力の強い研究である夢の解釈を発表して、ツェッペリン飛行船の初飛行が20世紀の幕開けを告げた。 マルコーニが無線電信の実験に成功して、それが後にラディオやテレビジョンとなっていく。 1903年にライト兄弟が初の有人動力飛行に成功したと言われている。19世紀末から20世紀初頭は、米西戦争の記憶も新しく、機械の時代と産業革命の世界観は激動的であった。医療分野では、廃止後半世紀、医療条例の再提出が着々と進められ、米国医師会(AMA)が折衷主義や同種療法を教える医学校を排除したり、或いは吸収することに益々成功して、助産術の吸収か排除をも決めていた。 

然し、アロパシー(異種療法)の権威に対する新たな挑戦は増えていた。 英国系ボーンセッターのA.T.スティルを始祖とするオステオパシーの専門家達は1893年以来、無資格医療の起訴に耐えてきたが、1901年までに14州ほどがDO(ドクターオブオステオパシー)の免許交付を許可していて(Gevitz, 1982, pp.40-2)、オステオパシーの教育は既にカリフォルニアにまでも広まっていた(Booth, 1924, p.89)。 売薬業者は1906年の食品薬物条例の拘束を未だ受けずに繁盛して、魔法の治療薬を売る旅回わり興行は非常に人気があった。 電気医療の治療家達も同様に活動の場を広げていた。特にAMAの裏庭であるシカゴで。

ニューヨーク市ではラスト(Dr. Benedict Lust)がアメリカンスクールオブナチュロパシーの運営を始めたばかりだった。 自然治癒の原因とナチュロパシーの方法に付いてラストの定期刊行誌、健康の使者で全米に報道されることになっていた。 またニューヨーク市はマクファッデン(Bernarr Macfadden)の生まれ故郷で、彼の刊行誌である肉体文化と数冊の書物を通じて、健康とボディービルディング運動は急速に成長していた(Ernst, 1991)。

一方、1886年に磁気治療家に成ったDDはアイオワ州バーリントンからダヴェンポートに移り、1895年9月18日、水曜日の午後4時にDDが最初のカイロプラクティックアジャストメントを行なって、ハーヴィー・リラードの難聴を治療したことでカイロプラクティックが始まって、1896年6月に、患者で友人でもあったウィード牧師(Rev.Samuel H.Weed)の示唆でDDの新しい治療法を「カイロプラクティック」と命名した。 

1896年の夏にパーマースクールオブマグネティックキュアとして法人組織にする為に有限責任会社化された(Wiese,1986)学校は「ドクターパーマーのカイロプラクティックスクールアンドキュア」(Dr.Palmer’s Chiropractic School&Cure)として知られるようになった(Palmer,1901)。 そして、1902年にDDはダヴェンポートを去る。 この続きは次号のお楽しみに。


パーマーの闘い4 ~イデオロギー論争~(110号掲載)

D.D.パーマー(以下、D.D.)の人生に議論は尽きなかった様なのだが、初期にはオステオパシーの創始者A.T.スティルとの間で論争があった。 英国系ボーンセッターの流れを汲むスティルのオステオパシーは、初期理論に於いて血液の循環を重視していることから、理論体系に違いが有ることになる。 勿論、筆者はオステオパシーを熟知している訳ではないので、間違いが有れば御指摘を願う。 

ウィラード・カーヴァーは、1886年にアイオワ州のメイズヴィルに生まれ、少年時代には配達の仕事をしていてパーマー家にしばしば行っており、B.J.を幼少期から知っていたと言われている。1902年にカーヴァーの親戚ハワード・ナッティング(L.Howard Nutting)がB.J.に学校を継続する為に融資している。 カーヴァーは後に弁護士に成って、1905年の2月、教育課程に暗示療法を含むことをD.D.に勧めた。 結果は想像に難くない。 

1905年の3月初めにD.D.は、18歳のルクレティア・ルイス(Lucretia Lewis)と言う名の新患を受け入れた。 彼女はアイオワ州オスカルーサ出身で、当時その町で弁護士業を営んでいたウィラード・カーヴァーが、D.D.に診てもらうことを彼女に勧めたのだった。 カーヴァーは結核を患っていて、ルイス嬢も同病であった。 3月10日にパーマー治療所でルイス嬢は亡くなった。 彼女が、カイロプラクターのケアの下で死亡した最初の患者と言われている。 

D.D.は死亡証明書の用紙を入手して、その最終欄に故人の担当医として自分の名前を添えた。 ルイス嬢の死亡証明書が市職員エドワード・コリンズ(Edward Collins)に提出された際、D.D.パーマーが死亡証明書を発行する権威を有するのか問われた。 コリンズは検死官事務所と連絡を取って、D.D.が死亡証明書の発行を認められた者として記録されているのか州保健局に質問状が送られ、D.D.が公的認可も無く振舞ったことを知らされた。その後、検死官の陪審員達が選ばれて、審問に出頭を命じる召喚状がD.D.に出された。 陪審に於いて、死亡患者の母親であるリディア・ルイス(Lydia Lewis)が最初に証言した。 母親は、娘の病状が前年に極めて悪化し、ウィラード・カーヴァーの助言で娘がD.D.の所に連れて来られたことを証言した。 そして母親は、オスカルーサの担当医が娘の治療を諦めて匙を投げて仕舞い、娘の症例は絶望的に見えたことを指摘した。 カーヴァーが絶望的な病状のルクレティア・ルイスを送り込んだのは、組織医療に見放された患者を救おうとD.D.の助けを求めたのはカーヴァー自身の人間性の豊かさからだ。 

1905年の6月、カーヴァーはチャールズ・レイ・パーカー(Charles Ray Parker)の学校を卒業してカイロプラクターに成り、1906年8月にオクラホマ・シティーでデニー(Denny)と共に自分の学校を始めた。 そしてカーヴァーは、1906年にD.D.とB.J.の法的別居を手伝った。D.D.の弁護士であったウィラード-カーヴァー(Willard Carver,LLB,DC)はオクラホマに移住した後もD.D.とB.J.に議論を挑み続けた。 カーヴァー自身も基礎概念に改善を加え、カイロプラクティックの学究に励んだ。この続きは次号のお楽しみに。


パーマーの闘い3(109号掲載)

1896年1月に、牧師サミュエル・ウィード によって、ギリシャ語の「手(Chiro)」と「技術(Prakticos)」の2語から「手で治す」の意味で造語されたのがカイロプラクティックであった。同じ年にD.D.が発表したカイロプラクティックの叙述と基礎をなす哲学は、10年前に樹立されたアンドリュー・テイラー・スティルに依るオステオパシーの原理の模倣であった。相方が人体を機械的観点から捉え、そのパーツにマニピュレーションを施すことで無投薬の治療が可能と主張し、健康改善の為に脊椎の関節機能不全にマニピュレーションを用いることを相方が公言した。D.D.は、棘突起と横突起を機械的梃子として用いる短梃子のマニピュレーション・テクニックを最初に用いたことを特色として自らの業績を差別化し、カイロプラクティックの脊椎マニピュレーションの効果が、主に神経系の介在に依ることを記述した。

パーマー・スクールと診療所は、1897年に最初の生徒を受け入れ、後にパーマー・スクールと診療所はパーマー・スクール・オブ・カイロプラクティック (以下、PSC)と改称して臨床と教育の両方を継続した。しかし、当時は丁度、スティルがオステオパシーの学校を始めた頃でもあり、D.D.は自分の考えやテクニックが盗まれるのを恐れた。 

1902年、D.D.は理由も告げず、ダベンポートを去り、オレゴン州とカリフォルニア州で講座を開いて西部地域へのカイロプラクティック教育浸透に努力していた。1903年にダべンポートへ戻ったD.D.はB.J.と対等株主の合名会社を作り、1906年まで続いた。1906年にアイオワ州スコット郡に於いて無免許医療の咎で裁判に掛けられたD.D.は、有罪判決の結果、投獄された。刑期を終えた後、D.D.はPSCの自分の持ち株をB.J.に売り渡して、西部へ移住し、オクラホマ、オレゴン、カリフォルニアで学校を開いた。

D.D.は、スティルとのイデオロギー論争ばかりか、息子B.J.とPSCの運営でことごとく反論しあい、他には顧問弁護士のカーヴァーとも論争し、論争はB.J.が引き継ぐのだが、それらの概要は追って解説する。ダベンポートを去ったD.D.は、1910年に自身の著作を1000頁の大作に纏め上げた。そして、1913年7月、アイオワ州ダベンポートのユニバーサル・カイロプラクティック・カレッジのホームカミング・パレードで、B.J.は自動車に乗ってパレードに参加していた。突然、小さな米国旗を振るD.D.が卒業生の行進を先導しようとして、パレード組織委員の在校生に止められて、口論となったところへ、B.J.の運転する車が到着し、父子の間で言葉が交わされた。 

D.D.はB.J.が自動車で衝突してきたと主張し、後日、D.D.の友人と味方は目撃証言の宣誓書を提出した。B.J.は完全に否定し、D.D.達が集めた証言よりもっと多く反証の証言を提出した。B.J.側の目撃者は、B.J.が車でD.D.を撥ねたのではなく、D.D.がよろけたと証言した。真実は定かではないが、D.D.とB.J.双方の主張を基に推測すれば、ユニバーサル・カイロプラクティック・カレッジに招かれて、息子B.J.の成功に心躍らしたであろうD.D.は、パレードでB.J.の運転する車を先導しようとしたが、パレード組織委員に危険だと止められ口論になって、D.D.に気付くのが遅かったB.J.は自らの運転する車でD.D.を撥ねてしまったのか、或いは軽い接触でD.D.が転倒したのであろう。 

事故から3カ月後、1913年10月20日にD.D.はロサンゼルスで死去したが、葬式参列に息子B.J.が来ないことを命じて逝った。D.D.の管財人、ジョイ・ロバンは、B.J.がD.D.を車で撥ねD.D.の死亡の原因となったと主張し、民事訴訟を起こしたが、数ヶ月も法廷で係争した後に任意で民事訴訟を取り下げた結果、審議は不利益無しで却下され、再審は無かった。アイオワ州スコット郡の地方検事もB.J.を殺人罪で起訴したが、ニ度の大陪審は証拠不足で却下した。この続きは次回のお楽しみに。


パーマーの闘い2(108号掲載)

D.D.は、奇行が見られるようになったとは言ったが、その根拠は後で述べるとして、B.J.の心の葛藤は慮るに余り有る。1895年9月18日、D.D.は難聴患者の背骨を手で再整列させて、患者が聴力を取り戻したことは、カイロプラクティックの偉大な発見であったが、自身の理論を共有することを躊躇ったD.D.は数年も黙り込んでいた。B.J.の記録によると、二人の間にはカイロプラクティックを家族の秘技にするのか世間に広めるのかで意見の相違が有ったようだ。しかし、命取りに近い事故の後、D.D.は出来るだけ速やかにテクニックを教授する決断をし、1903年のパーマー・スクール設立に至った。 

パーマー・スクールの評判は良かったが、競合校の出現によりD.D.は多額の負債を抱えた一方で、D.D.の手法には議論と異論が足枷となった。D.D.は無資格医療行為の罪でアイオワ州から訴えられ、投獄された。その後、同じ罪状でD.D.はカリフォルニア州サンタバーバラで逮捕されたが、投獄は免れた。1906年、D.D.は再びアイオワ州から無資格医療行為で訴えられ、有罪判決で罰金或いは105日間の入牢の刑が言い渡された。D.D.がアイオワ州で投獄された間、B.J.が学校の経営を担い、妻のマベル(Mabel)が解剖学の教鞭と学校の運営に深く関わるようになった。監獄から釈放された後、D.D.が始めた学校は経営破綻し、D.D.はロスアンジェルスに移り住み、活動的な著者、講演者として人生最後の数年を過ごした。

B.J.にパーマー・スクールと関連事業を任せて、D.D.は西部へ旅立ったと言えば、恰も西部劇のハッピーエンドを想像するのだろうが、実際は如何であったか、D.D.とB.J.の父子関係には不明解な部分が残る。皮肉にも、D.D.は息子B.J.のユニヴァーサル・カイロプラクティック・カレッジ(Universal Chiropractic College)へ講演に招かれ、B.J.が運転する車に撥ねられ、その怪我が元で3カ月後に死亡したと言われている。

1913年7月、ホームカミングのパレードで、B.J.は自動車に乗ってパレードに参加していた。突然に、小さな米国旗を振るD.D.が卒業生の行進を先導しようとして、パレード組織委員の在校生に止められて、口論となったところへ、B.J.の運転する車が到着し、父子の間で言葉が交わされた。その夜、D.D.はダヴェンポートを去り、ニ度と戻ることはなかった。何が起こったかは誰の話を信じるかによるが、この続きは次号のお楽しみに。


パーマーの闘い(107号掲載)

D.D.パーマーに依るカイロプラクティックの創始には、19世紀の社会的変化、特に1830年代の労働者運動と女性運動が重要な影響を及ぼした。農夫のサミュエル・トムソン(Samuel Thomson)がFriendly Botanical Societiesを組織して当時の23.5%の人口を介入したトムソニアン運動を起こして、「誰もが自分自身の主治」を唱えたことで知られる。因みに、トムソニアン運動のトムソンは「トムソン・テーブル」と関係が無い。「トムソン・テーブル」はThompson, DCの考案であって、トンプソン(Thompson)をトムソンと呼ぶのはサイトウさんをサトウさんと呼ぶに等しい。 

一方、フェミニスト作家のエーレンライヒは、原始的医療法に対する反医学運動の立場から「ポピュラーヘルス運動」を起こした。正式資格を持つ医師の治療は、荒々しく無謀で合理性を欠き、瀉血と外科手術が主で病名不明や未知の病に各種毒物や重金属を薬物と称して患者に使用した。自らを「正統医学」とは称したが、有益より有害のほうが多かったと言われている。当時の医学は「英雄医学」と呼ばれ、医療を行う医師も受ける患者も共に英雄でなければならなかった。1861年のリンカーン大統領就任に始まり1965年まで続いた南北戦争では「英雄医学」の悲劇が多く生まれたことは想像に難くない。一般の衛生レベルは低く、衛生環境の改善を説いたグレアム(Sylvester Graham)が今もクラッカー食品に名を残している。他には、水治療法の短期盛衰を見た。水治療法は、フィルターや過酸化水素水だの水素水だの炭酸水だのと、現代に至っても短期盛衰を繰り返すようだ。

当時の社会的変化によって新しい考え方や治療法に心を開いた態度が生まれ、1875年から1900年に渡ってアイオワ州、カンサス州、ミズーリ州を中心に異種療法(Allopathy)に批判的な反正統医学者達による新しい学校創設運動が盛んになった。 健康な人体に病気の兆候を起こす薬剤の使用を批判したドイツ人医師ハーネマンが唱えた同種療法(Homeopathy)は、合衆国全土に広まり、病院、学校が設立された。他には、ナプロパシーと前号で述べたA.T.Stillのオステオパシー等が挙げられる。

正統医学を称する異物療法の陣営に対する組織的な態度の堅持が困難に陥っていった。正規の医師達は長期的に医療の標準化に取り組み、同時に全ての「非科学的」治療者を「法に依って排除」する大規模な運動を開始した。異端医学で知られたシンシナティ医学校は、教職員学生達が学舎内に立て篭もり銃や大砲で抵抗したのだった。

ところで、当時の医師達は如何程に優秀であったのだろう?ハーバード大学声明は「非公式な認可が医師全体の水準を下げている」と報じた。1870年のSamuel Elliott学長書簡に医学部長は「医学校で筆記試験の実施は不可能」と返答した。筆記試験の実施は当然可能だったが、まともに文字を書けない医学生が殆どであったから筆記試験の採点が不可能であったのだ。米国第2のJohn Hopkins大学でも同様だった。1896年、Dr.Palmer’s School and Cureがアイオワ州ダヴェンポートに設立され、後のPalmer Institute and Chiropractic Infirmaryになる。息子のB.J.(Bartlet Joshua)が21歳の1902年迄にD.D.が認定を授与したのは僅か15人だった。

1906年にD.D.は無免許医療行為の罪で23日間投獄されている。自らの信念を貫く為に、不当な処置を甘んじて受け入れた。因みに、近年の日本で無資格者が瀉血とかの無免許医療行為で投獄されたのとは全く意味が違う。

パーマー親子は「創始者」と「発展者」として功績と名声をカイロプラクティックの歴史に残したが、彼等の親子関係や最期を知る者は日本では意外に少ないようだ。D.D.は1913年にカリフォルニア州ロスアンジェルスで最期を迎えた。B.J.は1961年にフロリダ州サラソタで此の世を去った。これだけでは十分に解らないかもしれないが、D.D.の投獄だけがパーマーの闘いではなかった。実は、D.D.には奇行が見られるようになったのだ。この続きは次号のお楽しみに。


カイロプラクティックの始まり(106号掲載)

ヒトは実に興味深い生命体であり、全員が基本的に同じ数の骨、同じ数の筋肉細胞、同じ数の神経細胞から出来上がっているが、それらの使い方は個体間で微妙に異なり、運動選手から音楽家まで様々な才能が開花する。カイロプラクティックに於いては神経系の優位性が力説されるのだが、特徴的に最も興味深い現象として人の中枢は、「見たいことを見たいように見る」、「聞きたいことを聞きたいように聞く」、「考えたいことを考えたいように考える」ようになっている。カイロプラクティック・手技療法を職としている読者は、カイロプラクティックに関して何か聞き違いや勘違い、考え違いは無いだろうか。万が一、洗脳された小世界に勝手な思い込みと共存しているのならば、一刻も早く目覚め、業界人の一人一人がカイロプラクティックを正確に理解し、実践して頂きたいと私は思っている。

まずは、歴史的なパースペクティヴからチェックを入れていこう。古代ギリシャの医学の父ヒポクラテス氏の「関節」に於いて、脊椎マニピュレーションを行った文書記録が有り、ローマ時代にアポロニウス氏がサブラクセーション部位へ立ったり、ローマ皇帝の医師として著名なギャレン氏が足踏みを用いたことを整形外科医のシリアック氏などが伝えている。

1746年に内科医のヒエロニミ氏がサブラクセーションを定義した。即ち、2500年程前から内科医も外科医もマニピュレーションを用いていた。残念ながら、黒死病(ペスト)の蔓延で多くの医学知識は消失したが、アラビアの一部地域からの逆輸入でなんとか復活を遂げた。マニピュレーションは、19世紀前半にその速効性を認める医師達が居たが、18世紀後半からの産業革命が招いた、結核と梅毒の蔓延により、衰退の一途を辿ったのだった。

一方で、マニピュレーションのテクニックは古くから世界中に存在し、前述の如く中世医学史にも見られるが、主にボーンセッターと称する人達に口伝で伝承されてきた。ボーンセッターはフィンランド、ロシア、ノルウェー、ウェールズで極最近まで存在していたし、アメリカ大陸のスペイン系社会でも同じだ。米国の開拓時代には、ボヘミア人の移住者が脊椎アジャストメントを施す写真が有り、自身が若い頃に敗血症から回復したと記録されている。英国系ボーンセッターの影響としては、「稲妻ボーンセッター」の異名で知られるATスティルが、1874年にミズーリ州カークスヴィルでオステオパシーを創設している。因みに、カイロプラクティックとの相違点は、初期理論に病の根源が神経ではなく血管に有るとしたことだった。

我等の英雄、DDパーマー氏は、1845年にカナダの森林地帯に誕生し、当時13歳相当の教育を11歳で終えるぐらいの勉強熱心な少年だった。DDパーマー氏は独学で大量の書物を読み、読んだ書籍を後年には私設移動図書館として所持した。DDパーマー氏はマニピュレーションのテクニックに関する文献も読んでいたと推測されている。 

1886年にアイオワ州バーリントンで「磁気治療」を行っていたが、ダヴェンポートへ移ったDDパーマー氏は、ハーヴィー・リラード氏との出会いから、1895年9月18日のカイロプラクティック史上で最も歴史的な出来事を迎えた。そして落馬が原因で杖に頼る生活をしていたウィード嬢の足を治したことを契機に、父親のギリシャ語に堪能なウィード牧師が、カイロプラクティックを造語した。ここでDDパーマー氏が下肢のテクニックをも身に付けていたことへ注目するべきだ。

アジャストメントのテクニックを誰から学んだかを訊かれたDDパーマー氏は、ある人物の名を挙げたが、その人物は戸籍上では見付からなかった。DDパーマー氏は、独学で学んだマニピュレーションから厳選してアジャストメントのテクニックを構成し、理論と哲学を加えてカイロプラクティック科学を構築させていったのだった。話題はパーマーの闘いに続くが、それは次号のお楽しみに。 

ページ上部へ戻る