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カイロプラクティックの歴史
中垣 光市 DC
- 衛生療法から生理医学主義へ(138号掲載)
- ミクサーとストレートの起源(137号掲載)
- 競合校の乱立(136号掲載)
- 権威の所在(135号掲載)
- サンタ・バーバラでの出来事(134号掲載)
- パーマースクール卒業生名簿の謎(133号掲載)
- モリクボ裁判とD.D.の理論変遷(132号掲載)
- Dr.ジェイムズ・アトキンソン(131号掲載)
- D.D.パーマーの奇妙な能力(130号掲載)
- D.D.のスピリテュアリズム(129号掲載)
- パーマースクールの発展(128号掲載)
- オステオパス達の動き(127号掲載)
- D.D.敗訴の理由(126号掲載)
- D.D.の有罪判決と服役(125号掲載)
- D.D.無免許医療で起訴(124号掲載)
- 新たな発見と理論の修正(123号掲載)
- 脊椎アジャストメントとカイロプラクティック哲学(122号掲載)
- トーマス・ストアレイのミステリー(119号掲載)
- 争いの余波(118号掲載)
- 衝突の火種②(117号掲載)
- 衝突の火種(116号掲載)
- 初期の教育と理論(115号掲載)
- 最初のカイロプラクティック・ライセンス(114号掲載)
- ナチュロパシーとナプラパシー(113号掲載)
- D.D.の最初の弟子(112号掲載)
- パーマー登場の社会背景(111号掲載)
- パーマーの闘い4~イデオロギー論争~(110号掲載)
- パーマーの闘い3(109号掲載)
- パーマーの闘い2(108号掲載)
- パーマーの闘い(107号掲載)
- カイロプラクティックの始まり(106号掲載)
衛生療法から生理医学主義へ
ミクサー達が受け入れたナチュロパシーの始祖ラスト(Benedict Lust, MD, ND, DC)の名は、B.J.パーマーが記した1895–1905 年間のパーマースクール卒業生名簿表にはなく、ラストがどこでDC学位を得たかは今後の研究に委ねるとし、「ストレート」や「ミクサー」から離れて、少し俯瞰的に医療の変革と無投薬医療を見るとしよう。
トムソン(Samuel Thomson[1769–1843])は1800年代初期アメリカでの「英雄医学」に抵抗と撲滅の動きを開始していた。ここにいう「英雄医学」とは、荒々しい外科手術や危険な薬物を用いた治療を中心として、患者も医者も「英雄」でなければできないほどの内容だったからその呼称がついたもので、「英雄医学」への反発から医療の改革が当時の社会運動になった。
トムソンのシステムは単純な薬草治療薬を蒸し風呂と浣腸に組み合わせて、薬草2種、すなわち、赤唐辛子(cayenne, Capsicum spp.)とキキョウ科ミゾカクシ属の植物であるロベリア(lobelia[Lobelia inflata])に重く依存した。
新トムソニアン(Neo-Thomsonian)の医師達が発展させた植物医療改革運動は、1852年には「自然の医学」を意味する用語、生理医学主義(physiomedicalism)として知られ、このグループを1838年に設立したカーティス(Dr Alva Curtis)は翌年オハイオ州にグループ初の学校を確立し、1869年発刊のクック(Dr William Cook)著の生理医学医薬品注解(Physio-Medical Dispensatory)がその臨床の基本の典型になっている。
生理医学主義者は、機能の均衡と生命力の強化に、衛生的、あるいは非毒性の植物薬の使用を強調した。彼らは組織の栄養と老廃物の排出、罹患組織の修復と適度な緊張の維持、そして生命力への障害の排除を推奨した。
健康への障害は、神経系または循環系、あるいは両方の異常な行動として見られ、撹乱された機能が平衡の喪失と組織の化学的破壊に導き、疾病症状としてあらわれる。生理医学主義者達は、病理的不均衡を修正するために薬草治療薬の組み合わせを用いた。しかし、1881年のカーティスの死に伴い、生理医学主義はアメリカでの衰退をはじめた。
ナチュロパシーのアメリカへの伝来は、ドイツ式自然療法の発展の一つで、新天地での同様の衛生(hygienic)と薬草(herbal)のシステムを引き継いだ。水療法と他の自然療法の組み合わせはアメリカで目新しくはなく、19世紀中期、病の治療に水を使うアメリカの水療法運動(hydropathic movement)の中心はニューヨークにあって、主な臨床家と教師に、ジョエル・シュー(Dr Joel Shew)、ラッセル・トロール(Dr Russel Trall)、メアリー・ゴウヴ(Mary Gove)と夫トーマス・ニコルズ(Dr Thomas Nichols)、そしてジェイムズ・ジャクソン(Dr James Caleb Jackson)が含まれる。
グレアム(Sylvester Graham)やトムソン(Samuel Thomson)とその他の民間健康改革(popular health reform)の推進者が奨励した禁酒主義、菜食主義、そして薬物忌避などの考えをトロールが組み入れて、水療法は衛生療法(“hygeiotherapy”)に進化した。
シューが1846年に設立した水療法誌『Water Cure Journal』は、1863年、トロールによって健康の布告者『Herald of Health』に改名された。水療法と衛生療法の運動の勢いは、1877年のトロールの死によって消散した。
トロールの生徒だったケロッグ(John Harvey Kellogg[1852–1943])は、のちに因習的な医学教育を追求して、安息日再臨派(Seventh Day Adventist)雑誌『健康改革者(Health Reformer)』の執筆と、ミシガン州バトルクリーク(Battle Creek, MI)の自分のサニタリウムで「生物学的生活(”biological living”)」の臨床および教育とを行った。論理的な水療法(hydrotherapy)と電気療法(electrotherapeutics)を因習的な理学療法(physiatrics)が受け入れるようになったのはケロッグの功績が大きい。一方、1890年代にドイツのニエップ神父(Fr Sebastian Kniepp 1824–1897」)と彼の著書『私の水療法』の影響で経験的な水療法が再起した。[Francis Brinker. HerbalGram. 1998 Spring; 42, 49–59]
前述のトムソンが「トムソン・テクニック」と「トムソン・テーブル」で日本に名を残したというのは筆者の性悪な冗句だが、グレアムはグレアムクラッカーで今に名を残し、ケロッグは明らかにコーンフレークなどで同様だ。(続きは次号のお楽しみに)
ミクサーとストレートの起源
D.D.パーマーの初期の生徒の一人、ラングワーシー(S.M. Langworthy, DC)が1903年アイオワ州シーダーラピッヅ(Cedar Rapids, IA)に開いたカイロプラクティック校アメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック・アンド・ネイチャー・キュア(American School of Chiropractic & Nature Cure, ASC&NC)では、教育課程に自然療法をカイロプラクティックとミックスしたことから[George W. Cody, JD, MA, Integr Med (Encinitas). 2018 Apr; 17(2): 16–18.]、ナチュロパシーが「ミクサー」の哲学と結び付けられるようになり、B.J.率いる「ストレート達」と論争状態になった[Francis Brinker. HerbalGram. 1998 Spring; 42, 49–59]。
歴史的にわかる限りで、D.D.がナチュロパシーの臨床や教育に関わった事実はなく、息子のB.J.はまっすぐなカイロプラクティックの純粋さを薄めることには何であれ断固反対したと言われる。
1903年のサンタバーバラでの出来事と1904年のカリフォルニア州オークランドでパシフィック・スクール・オブ・カイロプラクティック開校に関わり、パーマースクール卒業生56名の一番にB.J.が挙げたレイナード(Harry D. Reynard, DC, ND)の “DC, ND” 学位は「カイロプラクター・ナチュロパス(chiropractor-naturopath)」の意味であり、B.J.がまぎれもない「ミクサー(mixer)」をパーマースクール卒業生名簿の56名の筆頭に挙げたことは興味深い。
カイロプラクティックとナチュロパシーが正確にいつ同時に相互依存の関係になったかは定かでないが、DC, ND達の職業化を理解するには、「ストレート」と「ミクサー」の議論から離れて、ナチュロパシーの理解を要する。
ドイツ人の米国移民ベネディクト・ラストは、1892年に結核を患い、ドイツでニエップ神父(Fr Sebastian Kniepp)の治療を受けて治ったのち、ニエップ神父の委任を受け、香草の使用と生活習慣の単純な変更を含むニエップ神父の水治療法を広めるために、1896年、ニューヨーク市にサニタリウムと店舗を開いて、アメリカン・ニエップ誌『Amerikanische Kniepp-Blatter』を刊行した。
そして、ドイツにある他の自然療法の学校を調査したラストは、1898年にニューヨークでオステオパシーの学位を取得していた。1902年には英語版刊行誌『月刊ニエップ水療法(Kniepp Water Cure Monthly)』を『ナチュロパスと健康の使者(Naturopath & Herald of Health)』に改名し、米国ナチュロパシー協会(Naturopathic Society of America)と共にアメリカン・スクール・オブ・ナチュロパシー(American School of Naturopathy)を設立し、ラストは死期まで代表として活動した。
1905年、ラスト(Benedict Lust, MD, ND, DC[1872–1945])はニューヨーク州ニューヨーク市(NYC, NY)にアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック(American School of Chiropractic)を設立した。本稿の冒頭で記したラングワーシーのアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック・アンド・ネイチャー・キュアと校名が似ている。
20世紀初頭の統合的代替医療は「無投薬治療」に基礎を置き、異種療法医は薬物を用いたのに対し、代替療法医は薬物投与をしなかった。無投薬医療家を団体として最初期に組織した一人であるナチュロパシーの創始者ラストは、すべての無投薬療法を「自然療法医(Naturopath)」の名の下での統合に尽力した。[George W. Cody, JD, MA, Integr Med (Encinitas). 2018 Apr; 17(2): 16–18.]
ちなみに、ラストは1914年にニューヨーク折衷医科大学(Eclectic Medical College of New York)から医学位を医学位を受けている[Francis Brinker. HerbalGram. 1998 Spring; 42, 49–59]。
ラストがナチュロパシーの哲学に「無投薬療法」と「自然療法論」のすべての組み入れを試みたのは明らかで、スティル(A.T. Still)のオステオパシーとパーマー(D.D. Palmer)のカイロプラクティックも含まれた。ラストの観点ではこれらすべてが「異種療法医学」でないことで互いにつながるナチュロパシーの構成部分だった。米国でのナチュロパシーの歴史的先駆者としてラストは、20世紀の極初頭からカイロプラクティックを是認し、教えた。
「ミクサー」と「ストレート」の意味と起源を明らかにできたと思うが、異種療法の組織医療一辺倒になっている現代の我々が、平均寿命に限られた記憶と社会観と歴史観で、無投薬療法ならまだしも、自然療法や折衷医学(Eclectic Medicine)などの用語の幅と奥行きをいかほどに理解しているか定かでない。医療の先達が歩んだ道に並ぶ忘却の塵にまみれた過去の小石を可能な限りひっくり返して見る必要を感じる。(次号に続く)
競合校の乱立
確認できる2番目の教育校、アメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック・アンド・ネイチャー・キュア(American School of Chiropractic & Nature Cure, ASC&NC)を1903年、アイオワ州シーダーラピッヅ(CedarRapids, IA)に設立したラングワーシー(S.M. Langworthy, DC)は、スミス(O.G. Smith, DC)とパックスソン(M.C. Paxson, DC)の同窓3人で「近代化されたカイロプラクティック(Modernized Chiropractic)」を共著、1906年に発行し、この著作がモリクボ裁判で貴重な役割を務めたことはすでに述べたとおりだ。ラングワーシーは初期の脆弱な時期の業界存続に重要な役割を果たしたと評価されるが、彼の学校は1907頃までしか続かなかったようだ。
1904年には、マーシュ(John E. Marsh, DC)が、マーシュ・スクール・アンド・キュア(Marsh School and Cure)をオレゴン州ポートランド(Portland,OR)に開いた。B.J.パーマーが記した初期のパーマースクール卒業生名簿の12番に「J.E. Marsh」の名が見られるが、このマーシュがマーシュ・スクールを開いたのか、話はどうもそう単純ではない。
マーシュ・スクールと治療所がオレゴン州で知られる最初期の訓練校で、ポートランドの「南東5番街とホール通り(Southeast Fifth & Hall)にあった。設立者のマーシュが1904年に卒業した「ミネソタスクール兼治療所(Minnesota School & Cure)」は、ミネソタで「ブレイナードスクール(Brainiard School)」または「ブレイナードカレッジ(Brainiard College)のDrリンチの学校(Dr. Lynch’s School)とも知られていた。
マーシュのカイロプラクティック学位発行元が正確なら、Drアルメーダ・ホールドマン(Almeda Haldeman, DC)が1905年に卒業したのと同じ学校だ。よって、B.J.が表にした1895~1905年のパーマースクール卒業生56人の中の一人に「J.E. Marsh」の名が記されているが、それはそれで、必ずしも同一人物ではなかろう。[Sarah Tisinger, October 31, 2022 Palmer Proud Magazine]
Drアルメーダ・ホールドマンは、糖尿病の夫の健康回復のために、ミネアポリス・スクール・アンド・キュア(Minneapolis School and Cure)で新しい治療技能のカイロプラクティックを学び、1905年に学位を授与された。その後、夫君の健康には寒くて乾燥した気候が良いとのアドバイスに従い、夫婦でカナダのサスカチェワン(Saskatchewan)に移り、アルメーダ・ホールドマンDCは、カナダ初のカイロプラクターになり、世界で最初の女性カイロプラクターの一人にもなった。[Sarah Tisinger, October 31, 2022 Palmer Proud Magazine]
米国北西部でのカイロプラクティック教育の起源は、1904年のマーシュ・スクール・アンド・キュアにある。オレゴン州ポートランド(Portland, OR)には、D.D.パーマー・カレッジ・オブ・カイロプラクティック(D.D. Palmer College of Chiropractic 1908-1910)(後述の予定)を含め、初期のカイロプラクティック教育校のほとんどが所在した。
1903年のサンタバーバラでの出来事に関わり、B.J.のパーマースクール卒業生表の1番にあげられたレイナード(Harry D. Reynard, DC, ND)が、1904年には、パシフィック・スクール・オブ・カイロプラクティック(Pacific School of Chiropractic)をカリフォルニア州オークランド(Oakland, CA)に開校する。
そして、スミス(Oakley G. Smith, DC)は自分が発見したリガタイト(ligatite)に依る結合組織の神経圧迫から病が起きることを、パーマーのサブラクセーション症候群の代案として、1905年後半[Dynamic Chiropractic] にシカゴ・カレッジ・オブ・ナプラパシー(Chicago College of Naprapathy)を設立し、競合校は増えてくる。
同じく1905年、ラスト(Benedict Lust, MD, ND, DC 1872-1945)はアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック(American School of Chiropractic)をニューヨーク州ニューヨーク市(NYC,NY)に設立した。ラストとナチュロパシーに関してもう少し解説が必要になる。
ナプラパシーとナチュロパシーは似た響きだが、ナプラは靭帯を意味して、ナチュロは自然を意味する[カイロタイムズ113号ナチュロパシーとナプラパシー、120号ボヘミアン・カイロプラクティック]ので、両者の意味は全く異なる。(続きは次号のお楽しみ)
権威の所在
サンタバーバラでの新理論発見の状況をD.D.はその夕方に息子のB.J.への手紙に書き記し、その後の数通の手紙で、体の熱が正常であれ過剰であれ、D.D.の言葉で「熱を生じる神経」(“calorific nerves”)により供給されていることをさらに深く説明している。
これらの手紙は、カイロプラクティック誕生からの自叙伝を証明する10巻のうちの1巻に収められていて、これらがカイロプラクティックの原理を発見したのは誰かを疑問の影の余地すらなく示す根源の記述なのだ。
D.D.の独創性の功績をこっそり着服して、彼に与えられて当然の名誉を盗もうと欲する輩にB.J.パーマーは機先を制し、父親D.D.パーマーのオリジナルの著述をまとめて編纂するのがB.J.の理由だった。
ところで、D.D.が1903年にサンタバーバラで新しいカイロプラクティック理論を発見するきっかけとなったストアレイについて補足すると、ミネソタ州出身で、独自の錐と木槌のテクニックを考案した。ちなみに、木槌を使うテクニックは欧州地域で伝承されているようだが、たかが木槌といえども叩打箇所の特定性と押圧の方向性を確保するために、ストアレイは錐部の使用を思いついたと筆者は推理する。
1905年7月19日付のロス・アンジェルス・デイリー・タイムズ(Los Angels Daily Times)に治療風景が見られるストアレイの錐木槌テクニックは、患者の首を天井から吊り、思考のユニークさゆえに常軌を逸している印象はあるが、ストアレイが異常な倒錯者だったなら、B.J.が記したパーマースクール卒業生名簿表の10番に出てくることはなかろう。
また、「トーマス・ストアレイのミステリー」の章(119号掲載)で記したとおり、ストアレイが錐木槌テクニックを伝授したダン・リースランド(Dan Riesland, DC)はミネソタ州で繁盛し、B.J.の名簿表の48番に「D.W. Resiland」の誤植で出ている。
のちにリースランドとストアレイの2人が、D.D.パーマーの協力も得て、ミネソタ州でのカイロプラクティック法制化に貢献したという意見に反して、ミネソタ州のカイロプラクティック法制化でリースランドに協力したのは、ストアレイではなく、ラングワーシーにほかならず、D.D.パーマーの協力はあり得なかった。
カリフォルニア州での実り多き数年から戻ったD.D.パーマーと4番目の妻ヴィラ(Villa)[Dynamic Chiropractic]は、ダヴェンポートのロックアイランド通り(Rock Island Street 現在のパーシング街(Pershing Avenue)1518番地に居を構えた。当時、カイロプラクティックの中心はアイオワ州であったが、業界の枝分かれが進み、始祖は業界内での名声と権威を巡って卒業生数人との争いに巻き込まれていた。
1901年パーマースクール卒のラングワーシー(Solon Massey Langworthy, DC)が、1903年にアイオワ州シーダーラピッヅ(Cedar Rapids, IA)にアメリカンスクールオブカイロプラクティックアンドネイチャーキュア(ASC&NC)を設立し、サンタバーバラから戻ったスミス(Oakley G. Smith, DC)とパックスソン(Minora C. Paxson, DC)との協力で、最初の体系化された2年制カイロプラクティック教育課程を導入し、最初のカイロプラクティック教科書「近代化されたカイロプラクティック」を共著し、最初の業界誌『バックボーン(Backbone)』を刊行した[Dynamic Chiropractic]。
ラングワーシーがリースランドに協力し、彼等はミネソタ州でのカイロプラクター認可法令を確立するために州議会上下両院で法案可決に成功して、法の制定にはミネソタ州知事ジョンソンの署名を受けるのみであった。法案はカイロプラクティックの2年課程履修を免許申請者に要求したのだが、2年制カイロプラクティック教育課程は、当時のパーマースクールでは未いまだ提供されておらず、ASC&NCで提供されていたことには、恐らくD.D.パーマーを一層苦々しく感じさせたであろう。
D.D.とB.J.のパーマー親子は、ミネソタ州セイントポール(St. Paul, MN)の首府におもむき、州知事ジョンソンに会い、カイロプラクティック法案の拒否を迫った。同様の考えが医学界からも表明されていたので、州知事は同調し、最初のカイロプラクティック法案通過までに更に8年を要した[Dynamic Chiropractic]。
ブリンカー(Francis Brinkner)によると、D.D.は1902年以降、つねに旅行して周り、彼の書いた「免状」の授与者にD.D.の手法の臨床と教育の権利を授けていたと言われている
[Francis Brinker, The Role of Botanical Medicine in 100 Years of American Naturopathy. HerbalGram, 1998;42,pp.49-59]。
業界の組織化は望まれるのは別にしても、必然的に競合校が増える状況であった。
(この続きは次号のお楽しみとしよう)
サンタ・バーバラでの出来事
B.J.パーマーが1895~1905年間のパーマースクール卒業生56人を記した時点で、名簿表の順番はB.J.が重要度を感じた順で決めたのだろうと筆者は推理する。では、この表の第1番にあげられているレイナード(Harry D. Reynard, DC)がいかほどに重要なのか探ろう。
レイナードが卒業した1903年に何が起きていたかは、本紙118号「争いの余波」と119号「トーマス・ストアレイのミステリー」の各章で既報だが、あらましだけを簡略に述べると、卒業生ストアレイ(Thomas H. Storey, DC,DO)の失踪の連絡を家族から受けて、当時はB.J.パーマーが無資格医療で訴追を受けて精神的に大変だったろうにも関わらず、D.D.はサッサと家財を処分して、ストアレイの捜索を目的にしてカリフォルニア州のパサディナ(Pasadena, CA)へ出掛け、その後、サンタバーバラ(Santa Barbara, CA)へ行き、スミス(Oakley G. Smith, DC)とパックスソン(Minora C. Paxson, DC)が合流している。この二人はB.J.の名簿表の3番と4番にあげられている。
カイロプラクターならおよそ全員が、ハーヴィー・リラード(Harvey Lillard)の症例について知っていて、難聴の掃除夫をD.D.パーマーが治療したのを、独創的でカイロプラクティックの発展に影響を与えたとみる。しかし、リラードの治療の基盤となるパーマーの最初期のカイロプラクティック理論について、あるいは第一段階のカイロプラクティックが派生した磁気治療の概念について何か知っている者はほとんどいない。さらに知られていないのが、1903年に米国西海岸でD.D.が教鞭を取り、臨床に携わっていたときの理論的変化なのだが、その年のサンタバーバラでの出来事がカイロプラクティックの理論と法的立場に深い影響を与えることになるのだった。
パサディナでストアレイを探し出したあと、サンタバーバラのエイケン街区(Aiken block)ビルの15号スイートにD.D.は診療所を開いていた。1903年7月1日の午後、同市在住のロイ・レンウィック(A. Roy Renwick)が患者で来ていて、パーマースクール・サンタバーバラ校の学生としてレイナード(Harry D. Reynard, DC)、ルーカス(Ira H. Lucas, DC)、スミス(O.G. Smith, DC)、パックスソン(M.C. Paxson, DC)、ワイトマン(A.B. Wightman, DC)、とコリアー(M.A. Collier, DC)の6名、すなわちB.J.が表に記した56人のパーマースクール卒業生の1番から6番がその場に居合わせた。
では、1903年に得られた発見とは何だったのか、そして、なぜそれは現代のカイロプラクター達の間で広く記憶されていないのだろうか? 自称カイロ親父(Old Dad Chiro)のD.D.が、その発見を1904年のカイロプラクター誌『The Chiropractor』に記述している。
健康と病いの状態において人体が神経によって温められているのを発見したのは誰か?
「人体は神経によって温められて、血液によってではないことをドクターD.D.パーマーがいかにして発見したのか読者には興味あるだろう。」
「患者、A.R. Renwickの左の手、腕、肩から背骨まで強烈に熱く、体温のバランスは正常だが、上記部位の過剰な熱にクラスの注意を導いた。そして胸椎にアジャストメントを施すと、左側の神経圧迫と左上肢の過剰な熱は緩和した。しかし、椎骨を押し過ぎて、右側に神経圧迫の影響を生じ、ただちに右上肢に過剰な熱を起こした」
「身体の熱は血液によるのか、あるいは神経によるのか?」とクラスに尋ね、数分の考える時間を与えてからD.D.は再び「身体の熱は血液によるのか、あるいは神経によるのか?」と尋ねると、クラス全員が「神経」と答えた。こうして新しい理論が考案された。
この新理論発見には合計8名、D.D.と患者のレンウィック、そしてその場に居合わせたパーマースクール・サンタバーバラ校の学生6名が証人となる。ゆえに、B.J.の卒業生名簿では最初の6名が特筆すべき存在とB.J.が感じたのだろうと筆者は考える。
(続きは次回のお楽しみとしよう)
パーマースクール卒業生名簿の謎
ここまでを少し視点を変えて整理してみるのに良い機会だ。1896年、D.D.パーマーはアイオワ州ダヴェンポートにパーマースクールオブマグネティックキュアを設立し、1897年、ミズーリ州フルトンの列車事故で命を落としそうになってすぐ、事故で負った傷害を治療するに十分なカイロプラクティックをリロイ・ベイカー(LeRoy Baker)に教えたので、ベイカーが最初の生徒だったともいわれるが、ベイカーは2週間から3か月のコースすら終えれなかったことは以前に記した。
1898年1月15日が最初のカイロプラクティックカレッジのはじまりを記す日であって、同種療法医シーリー(William Ambrose Seeley, MD, DC)が8~10週間の教育に授業料500ドルを現金で納めた支払記録によって、シーリーがD.D.の最初の弟子とされる。
1898年、シーリーとデイヴィス(Andrew P. Davis, MD, DO, Oph.D, DC)の2名が最初の卒業生で、これら初期のクラスでD.D.は4~12番の胸椎をアジャストすることだけを教えた。また、D.D.が受講生を決して1回に3人を超えないように配慮していたのは卒業生名簿からも推測される。
1895~1905年の間のパーマースクール卒業生56人をB.J.パーマーは表にした。この表は後年J.C.キーティングが転載しているが、人名に誤植が認められるため筆者がわかる範囲で訂正して紹介する。[Joseph C Keating, Jr. Early chiropractic education in Oregon. B.J.Palmer’s list of Palmer School graduates during1895-1905 (Table 2). J Can Chiropr Assoc. 2002 Mar; 46(1): 39–60.]
表タイトル:B.J.パーマーの表
1. H.D. Reynard (1903) 2. Ira H. Lucas. 3. O.G. Smith (1899) 4. Minora C. Paxson (1900) 5. A.B. Wightman 6. M.A. Collier 7. A.S. Dresher 8. S.D. Parrish 9. A. Henry 10. T.H. Storey (1901) 11. Henry Gross 12. J.E. Marsh 13. Martha Brake 14. J.J. Darnell | 15. Dr. Oas 16. Dr. Hananska 17. Dr. Evans 18. G.B. Danelz 19. Selma Doelz 20. E.E. Sutton 21. O.B. Jones 22. J.L. Hirely 23. S.M. Langworthy (1901) 24. W.J. Robb 25. E.E. Jones 26. E.D.B. Newton 27. E. Ellsworth Schwartz 28. A.G. Boggs | 29. S.M. Hunter 30. Andrew Coleman 31. Dr. Bennett 32. C.D. Sprague 33. C.E. Ashwill 34. A.P. Davis (1898) 35. P.W. Hammerle 36. Thomas Francis 37. Ella Bon 38. C. Wright Dodd 39. C.W. Konkler 40. Mrs. M. Gould French 41. Edward D. Schoffman 42. C.H. Fancher | 43. F.B.C. Eilerficken 44. W.L. Bowers 45. Chas. G. Munro 46. R.P. Rold 47. W.F. Booth 48. D.W. Resiland 49. Dr. Raymond 50. Ernie Simon 51. D.B. Baker 52. Miss Eliza Munchison 53. Ray Stouder 54. Dr. Schooley 55. Ralph Graham 56. Cha’s. Ray Parker (1905) |
D.D.パーマーのパーマースクールオブマグネティックキュア設立が1896年で、1898年1月15日が最初のカイロプラクティックカレッジのはじまりを記す日だとされるが、1906年にパーマースクールの運営を掌握したB.J.パーマーが、1895~1905年の間にD.D.が育てたパーマースクール卒業生56人を表に記したのだから、1897年のリロイ・ベイカーより前の1895年からすでにパーマースクール卒業生がいたことになる。
そして、先の表の56人には卒業年の記載がなく、筆者にわかる範囲で追記したが、パーマーカレッジ初といわれた1898年の卒業生2人のうちの1人であるデイヴィスは34番にあげられ、授業料の現金支払記録から「最初の弟子」と称されたシーリーの名は見あたらない。そのうえ、パーマースクールを卒業したB.J.自身の名がないのも謎だ。この謎の続きは次号のお楽しみにしよう。
モリクボ裁判とD.D.の理論変遷
D.D.と彼の信奉者達は、「動脈の法則」(“rule of the artery”)をオステオパス達に残し、病い(“dis-ease”)における神経系の優位性の仮定に独占的に関わることになる。この修正は、ウィスコンシン州ラ・クロス(La Crosse, Wis.)の法廷において法的に補強されたのだ。 1907年、オステオパシーの無資格診療で審理された一人のカイロプラクターの、最初となった無罪放免が神経系に対する循環系の区別に基づいていた。
カイロプラクター達にとって1907年の最も重要な出来事は、1906年パーマー卒業生のシゲタロー・モリクボ(”Shegetaro Morikubo”, DC)の無罪放免であった。日本人初のDC、シゲタロー・モリクボ(”Shegatoro Morikubo”, PhD, OA, PhC, DC)の法的弁護がカイロプラクター達を投獄から護る力を持つ学理的な理論的先例となった。名前のスペリングは筆者が調べた範囲で上記2種であった。日本名は、JCA/JACのカイロプラクティックニュース(https://chironews.jp/news/森久保重太郎の調査/)と本誌カイロタイムズのウェブサイト上の「日本カイロプラクティック史(仮称)年表 原案」(https://chiro-times.co.jp/?page_id=818)の記述にならい森久保重太郎とする。
東京の大学で哲学科を卒業したモリクボは、スコット郡でのD.D.パーマーの裁判と収監中であった1906年の3月と4月にはパーマースクールの生徒だった。その年、DCの学位を授かった後にモリクボは、B.J.パーマーと12人を超えるパーマー卒業生に加わって、ユニヴァーサル・カイロプラクターズ・アソシエイション(Universal Chiropractors Association, UCA)の設立に努めた。
UCAは、カイロプラクターの法的擁護を目的に最も長く続いている団体であり、今日のアメリカン・カイロプラクティック・アソシエイション(American Chiropractic Association, ACA)とナショナル・カイロプラクティック・ミューチュアル・インシュアランス・カンパニー(National Chiropractic Mutual Insurance Company, NCMIC)の両方の最初期の先駆である。
1907年にウィスコンシン州ラクロス(LaCrosse, Wis.)でモリクボが無免許医療で逮捕されたとき、UCA事務局長のB.J.パーマーが、州議会上院議員トム・モーリス(Tom Morris)に若いモリクボの弁護を頼んだ。
ウィスコンシン州の次期副知事に成る器のモーリスは、森久保が薬物の投与と外科手術の執刀との何れも行っていなかった理由から、地方検事に無免許医療と手術の罪の告発を却下するように説得した。その替わりにモリクボは無免許でオステオパシーを行った罪で裁判を受けることになった。
その日系アメリカ人カイロプラクターの(人種が問題でもあった)判例を実証するために、モーリス(Morris)は、カイロプラクティックとオステオパシーの両方の学位を持つ専門家達を証言台に呼んだ。その専門家達は、カイロプラクティックとオステオパシーにはそれぞれ「異なる別個の」哲学と臨床の方式、形態があることを証言した。オステオパス達は「血管の法則」(すなわち、血液循環)だけに興味があると誤って主張して、カイロプラクター達は健康と病いにおける神経系の役割にだけ興味を持っていると述べた。
これら専門家の証言は、パーマースクール卒業生、スミス(Oakley G. Smith)、ラングワーシー(Solon M. Langworthy)とパックスソン(Minora C. Paxson)の3人が共著した初期の教科書『近代化されたカイロプラクティック(Modernized Chiropractic)』の文言により補足され、カイロプラクティック独自の「哲学」を再肯定することになった。カイロプラクティックを行ったのにオステオパシーを行ったというのはモリクボが無罪であることを決定するのに陪審員は30分も掛からなかった。業界にとって最初の重要な法的勝利であった。
モリクボの判例におけるモーリスの勝訴の議論は、その後何年も続いてカイロプラクター達に対する犯罪審理の場で繰り返されることになるのだ。同様にB.J.パーマーは、UCAの書記長として公判に出廷していたので、モーリスを保護団体の主任法的相談役に雇った。モーリスと、彼の後を引き継いだ弁護士達のホームズ(Arthur T. Holmes)、ジョンズ(Robert D. Johns)、ジョンズJr(Robert Johns, Jr.)、フラハーティー(Daniel T. Flaherty)達は、1980年代までカイロプラクター達の法的な需要に応え続けた。
Dr.ジェイムズ・アトキンソン
(前回に続いて)
D.D.パーマー(以下、D.D.)の息子B.J.パーマー(以下、B.J.)によると「父は、頻繁にミシシッピ峡谷精霊主義者年次野外会合 (the annual Mississippi Valley Spiritualists Camp Meeting)に参加していて、そこでDr.ジェイムズ・アトキンソンからカイロプラクティックの原理についてのメッセージを受けたと最初に主張した」のだ。
「Dr.ジェイムズ・アトキンソンという知的な精霊的存在によって、私に授けられた知識と哲学は、現象の説明、原因、結果、効力、法則と効用と共に、私の理性に要請した霊界の知性から、或る物理的現象の説明を私が得た方法とは、聖書の言葉でインスピレーション(天来の妙想)として知られている。大いにそのような精霊の台詞付けの下でカイロプラクターズ・アジャスター(The Chiropractor’s Adjuster)は書かれた。」とD.D.は記した。
この件について、ずっと後にB.J.は、ハーヴィー・リラードの出来事から時が経つにつれて、父のD.D.がアトキンソンについて話すことは減って、現象をもっと合理的に説明した科学、技能、そして哲学について、もっと話したことを中継で伝えたのだった。
「やがて彼は自分自身に内在する先天的知能を明快に理解するに至った。それが彼の思考に浸透したとき、彼は何でも『ジム・アトキンソン』の作にするのを止めて、全てを自分の内なる人物の大きさに帰属させた…父の初期の思考は神秘的で未知の無理があった… 彼は自分の本に書いた『ジム・アトキンソン』へ後になって、完全に幻滅を感じたと我々は確信している。」
その叙述では不明瞭だが、D.D.は自分の考えを徐々にと進化させ続けていて、初期のカイロプラクティックの説明にはスピリチュアリストの趣きが強い。「カイロプラクティックは、組織系統立てられた知識の名称であり…生命を長らえ、よって、今生の存在を次の段階、即ち来世の準備のためにずっと効果的にして…この巻では過去25年間に習得した知識を組織系統化し…椎骨の変位を調整する技能と生命の法則の広範囲に渡る説明と共に…」と云った表現がスピリチュアリストの趣きの例だ。
始祖は書かれた文字を尊重し、それは19世紀の男子教員に相応しい資質で、彼のラズベリーの苗木カタログであれ、彼の教育方法論のノート、あるいは専門職の同僚への手紙を読んでも、彼のセンスの良さと確信して文章を書く能力は輝いている。学校の教師、園芸家、乾物屋、磁気治療師、あるいは後にカイロプラクターとしての日々であっても、始祖の一つ根深い特徴は几帳面に記録を取ることだった。彼の手記の日誌は、レターリングまで芸術的なスタイルで、それは彼が記録書を尊重、高く評価して、その外観をも誇りに思ったことを示唆している。これは、カイロプラクティックの進化する科学を記録に留める彼の努力と同様に、ケアの最良質を求めた思い入れの証拠になると考えられる。
さて、未開封の手紙の内容を読むなど超能力者の一面を見せたD.D.なのだが、彼がカイロプラクティックの知識を授かった「知的な精霊的存在」は「約50年前にアイオワ州ダベンポートに住んでいて」、「既に他界した医師」とD.D.が記述したDr.ジェイムズ・アトキンソンは、アイオワ州ダベンポートに生きていた医師であった根拠も、生存した記録も無いか、あるいは見つかっていないと言われている。
仮にDr.ジェイムズ・アトキンソンとの遭遇が異次元の出来事であったにせよ、B.J.パーマーの言うD.D.の「自分の内なる人物」がカイロプラクティックを発見したと考えるのが妥当であろうが、疑惑を招いたD.D.に不利な欺瞞にはB.J.も黙っていられなかった。
D.D.はカイロプラクティックの発見者ではなく、誰か他の人物に教わったのだという噂を振り撒く連中を黙らせるために、その証拠を提供できる者に1,000ドルを支払うとB.J.が申し出た。
1907年11月、ボヘミア人か誰かからD.D.が教えを受けたと証明できる者に5,000ドルを提供すると懸賞金増額をB.J.は申し出た。この金額は、ダベンポートのバック自動車、四輪馬車、車両用具会社(The Buck Auto, Carriage and Implements Company)が1907年製ビュイック(Buick)の車種価格を1,120ドル、1,250ドル、と1,900ドル、そして最高車種を2,500ドルの価格で宣伝していたから、今日の最高級モデルビュイックを今日の価格で2台分の金額を想像すれば判るだろう。(次号に続く。)
D.D.パーマーの奇妙な能力
D.D.は、痛みを患う者の近くに居ると、同じ所に痛みを感じ、その人たちにそれを伝えると痛みが消えると言っていたとB.J.パーマーが報告している。
カイロプラクティックの始祖のもう一つ奇妙な特性を息子B.J.が次のように伝えている。
「父は、時折、自分から直接、郵便局の一般配達窓口へ行って、『アイオワ州デュブーキのO.G.W.アダムズさんから私宛ての手紙が来ている。昨日送られて、昨日午後3時の消印が押してある。其れを出してください。』という具合に言うんだ。手紙を受け取ると、封されたのを未開封のままで、平たく額に押し当て、読み始めるんだ。そして署名や、誤字が有れば其れも、下線を引いた単語が有れば其れも含め、書かれた通りにキッチリと其の手紙を全部読み終える。それから、未開封のままの手紙を郵便局の窓口係員に開封させ、読み上げた内容の正確さを確認させる。親父はいつも100パーセント正確だったよ。」
磁気治療師としてD.D.パーマーは、アイオワ州ダヴェンポートで臨床実績を重ね、明らかに独特なアプローチが有った。他の磁気治療師は自分の磁気で患者の全身を治療する処を、D.D.は自分の磁気をもっと集中した様式で用いようとした。患部の臓器を正確に定めて、その下に片手を置き、上にもう片方の手を置き、磁気治療のエネルギーを片手からもう片方の手に流すのだ。
驚くほどのことではないが、D.D.パーマーは、特定性を表明し続けた。D.D.は、彼なら一般に一回の特定的な力を導入する処を、患者の回診の度に6回から10回も背骨に力を移入する他のカイロプラクターたちを、後に諭すことになるのだった。D.D.は、著書のカイロプラクターズ・アジャスター(The Chiropractor’s Adjuster)で「カイロプラクティックの科学は特定的であるのか?もしも特定的でないのなら、それは科学ではない。」と述べ、また「カイロプラクターは神経圧迫を探しだす(特定的であると云うことは1箇所と1アジャストメントを意味し、さもなくば科学的ではない)…カイロプラクティックは、特定的である限り科学だ。正確である為に識別する能力が、カイロプラクティックを科学であり、技能とする。」と主張した。
では、カイロプラクティックの哲学への変遷を見ていくとしよう。新たなカイロプラクティックの専門職の哲学的根源は、磁気治療家からカイロプラクターへの過渡期にD.D.パーマーの記述に見ることができる。報告されたハーヴィー・リラード(Harvey Lillard)の聴力回復の出来事以来最初の3ヶ月の内に 「磁気は、創造の頂点のヒトに帰属し、癒しと生命を与え、生気と神経の力を伝える。」とD.D.パーマーが記している。
先天的知能の哲学的原理は、D.D.パーマーの初期の着想の一つであったことに付いて、次のように複数の記述が示唆している。「先天的知能(Innate Intelligence )と後天的知能(Educated Intelligence)は自分の最初期のカイロプラクティックの概念の内に有った。これらは自分にとって極めて重要な事実であり、濃縮された提議、重要な現実的真実、即ちカイロプラクティックの基本原理の一つなのである。」また、「Innate(持って産まれた)と私が名付けたのは、宇宙を満たす知能の一部なのである。」
D.D.パーマーの考えが生気論(Vitalism)と磁気論(Magnetism)とで徐々に発展したので、彼の最初期の記述に宗教、哲学、そしてスピリチュアリズムに関する具体的な叙述がない。このことは、彼自身の貴重な新発見を理解する最初期の試みにおいて明らかで、D.D.は、自覚の跳躍を当時の日常の環境に近い何か、即ちチャネルの繋がった精霊の作だとしたのだ。
「この古くて新しい教義の知識を私が最初に授かったのはDrジム・アトキンソンからで、彼は約50年前にアイオワ州ダヴェンポートに住んでいて、今ではカイロプラクティックとして知られる原理を彼の人生で広めようと試みた…この進歩に当時の知性は準備ができてなかった。」とD.D.は記述した。
この場合は心霊論者の表現が妥当と筆者は考えるが、活動的なスピリテュアリストとしてD.D.パーマーは、自分が「Drジェイムズ・アトキンソン(James Atkinson)と名乗る既に他界した医師から授かった」のがカイロプラクティックの知識だと述べたのだ。
続きは次号のお楽しみにしよう。
D.D.のスピリテュアリズム
D.D.パーマーを理解する為には、スピリテュアリズム(Spiritualism)とヴァイタリズム(Vitalism)が必要な要素だ。スピリテュアリズムは、降神術、心霊論、降霊説、唯心論、観念論が和訳で、一般に観念論と結び付けられるが、プラトンやバークリーの観念論と趣きが異なる印象なのだ。前もって知識不足を告白しておくが、哲学に疎く、霊能力に恵まれぬ筆者は、この単語の和訳に躊躇い、発音のカタカナ表記に留めて、ヴァイタリズムは生気論とした。ちなみにマグネティック・ヒーリング(Magnetic Healing)を磁気治療と訳してきたが、現代の脳深部刺激療法や経頭蓋磁気刺激療法とは全く別次元の現象であるのはすでに明らかと思う。
1874年にD.D.パーマーは、ルーヴェニア・ランダーズ(Louvenia Landers)と前より長続きの結婚生活を始め、2年以内に夫婦の最初の子、メイ(May)と名付けた娘を儲けた。
スイートホーム(Sweet Home)に住んでD.D.は、教育者、園芸家として成功を楽しみ、ミツバチ養蜂場に特別な満足を見つけたようだが、1880年の暮れは中西部の冬でも特に厳寒の先触れとなり、蜂が全滅したことを彼の手記が明らかにしている。彼は、1880年にはまだスイートホーム産ラズベリーの苗木販売ビジネスの繁盛を宣伝していたが、1881年までに権利譲渡証書にある10エイカー(約4万470平方メートル)の農場と家屋敷を売り払い、両親が住むアイオワ州ウァットチアー(What Cheer, IA)に移り住み、そこで乾物店を開き、金魚の養殖販売を営み、活きた金魚を出荷する為の最初の機能的なコンテイナーを発明している。1881年は、36歳のD.D.パーマーにとっては精神的に疲れる年だったが、彼と妻のルーヴェニアは息子、バートレット・ジョシュア(Bartlet Joshua)を授かり、ウァットチアーの彼らの新居にB.J.が生まれたのだった。
D.D.パーマーは、D.D.の家族が住むアイオワ州ウァットチアーの小さな町に移ってから間もなく、ウァットチアーから真っ直ぐ南へ約30マイル(50Km)の距離のオッタムワ市(Ottumwa, IA)に居た有名な磁気治療師ポール・キャスター(Paul Caster)に師事した。キャスターはフランツ・アントン・メスマー(Franz Anton Mesmer)の門人で、メスマーと云えば名前から動詞の Mesmerize が派生したほどの人物であって、門人のポール・キャスターは、並外れに成功した磁気治療師になった。
1866年にキャスターは、磁気治療の業界を向上させ、自らの技能と能力で、広く永く続く評判を得た。再びアイオワ州オッタムワに戻ったキャスターは、1869年に8万6千ドルの資金を投じてビルを建てた。それが今のオッタムワ病院だ。彼の努力に従う臨床結果に評判が実証されるにつれて、世界中から来る人々と、国内の僻地からの患者をそこで治療した。
キャスターは、彼の治療がよく効いて患者たちがもう必要ないと、置いていった杖や松葉杖と一緒に写真撮影されるのを楽しんだと言われている。これは後にD.D.パーマーが自分の磁気治療とペルソナに取り入れた興味深い特徴だ。
スピリテュアリストとして、生存の非物的側面に付いて考える傾向から、D.D.パーマーは磁気治療に飛びつくように興味を見出した。当時、スピリテュアリズムと磁気治療は頻繁に混交されていた。いつD.D.パーマーがキャスターから学んだのかは、証明書や卒業証書が失われてわからないのだが、ウァットチアーに移ってから5年もしない内に、D.D.はアイオワ州バーリントン(Burlington, IA)で磁気治療を始めているから、アイオワの家族のもとに戻った頃に違いない。キャスターの評判と成功、更にウァットチアーとオッタムワの近い距離を考えると、D.D.パーマーがキャスターに師事しても不思議ではない。
D.D.が磁気治療へ引きつけられたのには、生気論的(vitalistic)な考えが根源にあると思われる。D.D.の著述から引用すると、電気、あるいは直流電気、あるいは地球、あるいは鉱物、無機物に属し、ヒトの器官には少し冷たく、そして衝撃的で、繊細な神経には全く適していない。動物の磁気と機械の電気は全く異なる力であり、利用法が異なる。磁気は、最高位の創造物であるヒトに属し、生命の維持に必要な、生気と神経の力を伝えて、癒し、活力を与える。
この続きは次回のお楽しみに。
パーマースクールの発展
1906年3~4月、アイオワ州スコット郡での裁判に敗訴したD.D.は、米国でのカイロプラクティック迫害の歴史の中で投獄された数百人のカイロプラクターたちの筆頭になった。罰金を払って牢獄から釈放され、パーマースクールに戻った数日は教鞭を取ったが、学校の持株を息子のB.J.に売って、オクラホマ州メドフォード(Medford, OK)に移り、食料雑貨店を開き繁盛する。そこからD.D.の新たな冒険が始まる。
一方、父親D.D.の持株を買い取ってパーマースクールの指揮権を掌握したB.J.パーマーは、ブレイディー通り(Brady Street)828番地を購入し、建物に講堂を建て増した。それから、B.J.は暫定的に授業料を減額して、入学者数を二倍以上に増やしたのだった。更に、B.J.はカイロプラクティックに関する一連の公開講義を始めて、「カイロプラクティックの科学(The Science of Chiropractic)」を発刊した。
B.J.がパーマースクールの指揮権を掌握したとき、学校名はパーマーズ・スクール・オブ・マグネティック・キュア(Palmer’s School of Magnetic Cure)であり、まだ最初の名称のままで法人化されていたが、1907年5月21日にパーマー・スクール・アンド・インファーマリー・オブ・カイロプラクティック(Palmer School and Infirmary of Chiropractic)として法人化される。学校名の刷新はB.J.らしい賢明な選択であったと思う。
カイロプラクティック生誕の故郷でB.J.は競争を抱えていた。1906年8月にパーマー・スクールを卒業した後に、ダベンポートのベナドム療養所(J.W. Benadom Sanitarium)と交流していたハワード(John F.A. Howard, DC)が、1906年後期、或いは1907年初期、ナショナル・スクール・オブ・カイロプラクティック(National School of Chiropractic)をダベンポートの南プットナム(Putnam)ビルの305号室に設立した。そこはまさに最初のアジャストメントをD.D.パーマーがハーヴィー・リラードに施した場所であることを賢明な読者は覚えているだろう。
パーマーの論争はD.D.だけに留まらず、B.J.にも分担は回ってきたようで、モーゲンサル(Paige Morgenthal, DC)の記述では、フォスター(Arthur L. Foster)が、1906年、パーマーの単一病因論の限界を指摘して、B.J.とカリキュラムで対立した後に、ナショナルスクールの設立に関わっている。
1907年後期、ハワード(John F.A. Howard, DC)は、患者も入学生も解剖用検体も量的に多いシカゴにナショナルスクールを移す。1908年、シュルツ医師(W.C. Schulze MD)はシカゴ姿勢矯正研究所(Chicago Movement Cure Institute)を運営していて、1908年から1910年頃の10ヶ月間ハワードがシュルツの下で働いた。シュルツとハワードが、広い業務範囲と理論を目指す “Mixer”(「ミクサー」)の急先鋒を形成する。
1917年には、シュルツ(William C. Schulze, MD,DC)がシカゴのナショナルスクールの学長兼学部長として、またフォスター(A.L.Foster, MD,DC)が書記官として名を出している。競合校のことは後に纏める予定として、話をパーマースクールに戻そう。
科学の最先端であったX線撮影装置を、その発明から間もない1909年、B.J.パーマーがカイロプラクティックのアジャストメントに最初の使用を始め、1910年までにはパーマースクール内にX線ラボを建設して、そこでの作業を表現する”spinograph(脊柱図)”の言葉を造語した。
X線の使用はカイロプラクティック業界を分断し、多数の競合校が興る。怯むこともなくB.J.は教員の一人、エヴァンズ(Dossa Evans)とニューロカロメーター(Neurocalometer)を発明した。それは脊柱に沿った皮膚領域の温度差を測定する装置だ。B.J.は、1935年までにB.J.パーマー・カイロプラクティック研究クリニックを設立して、複数の全身骨格と数えきれない全脊柱を含む世界最大の骨学的資料を収集した。続きは次号のお楽しみに。
オステオパス達の動き
1906年のD.D.パーマー無資格医療裁判までの米国医師会(AMA)の活動と社会的影響をみたところで、これまでに数回、着実に組織力を強めていたことには触れてきたオステオパスたちの動きも同様に整理しておくと、この先の出来事を理解し易いと思う。米国オステオパシー協会(American Osteopathic Association, AOA)の資料を参考に、彼等の動きを纏めてみることにする。
免許持ちの内科医スティル(Andrew Taylor Still 1828-1917)が1874年、初めてオステオパシー医学の哲学と科学を記述し、1892年、ミズーリ州カークスビル(Kirksville, MO)に、アメリカン・スクール・オブ・オステオパシー(American School of Osteopathy)が設立された。 オステオパシーのメンバーたちは、内科医、外科医、D.O.(ドクター・オブ・オステオパシー)と呼ばれ、彼等は総合的な医療サービスを提供する資格を与えられた。
1897年に、米国オステオパシー振興協会(American Association for the Advancement of Osteopathy)が設立され、同年、4月19日にミズーリ州カークスビルで会合が開かれて、会長、第一及び第二副会長、書記、会計、と五人の評議員が選ばれ、会費を1ドルとし、会員資格をオステオパシーで認知されている学校の卒業生に限る旨を会則に定めた。
1898年6月にオステオパシー大学校連合会(Associated Colleges of Osteopathy)が組織された。同年、評議員会が7人に増員され、協会の機関紙としてポピュラー・オステオパス(POPULAR OSTEOPATH)を採択して、1899年1月に初刊を発行、1990年6月まで続いた。
1899年には、年会費を5ドルに増額、評議会を9人に増員した。会則が修正され、会員は名の通ったオステオパシーの大学校の卒業生のみで構成されると規定し、「名の通ったオステオパシーの大学校」とは、「オステオパシー大学校連合会(1898年6月設立)に会費を納めている学校」と定義した。
1901年には米国オステオパシー振興協会(American Association for the Advancement of Osteopathy)の呼称が、米国オステオパシック協会(American Osteopathic Association)に変更された。また、同年9月には米国オステオパシック協会ジャーナル(JOURNAL OF THE AMERICAN OSTEOPATHIC ASSOCIATION)を発刊し、教育、出版、法制の各第一常任委員会を設置した。
1902年、オステオパシーの大学校認可(approval)の基準が採択される。新会則の採択に伴い、「本会のみによって認識された学校の卒業生が当協会の会員に適格であり、その他は何人たりとも当会の会員資格に能わず。」と規定された。
オステオパシック・フィジシャン(OSTEOPATHIC PHYSICIAN)が協会の公式な会報として採択され、1902年8月から1903年12月まで会報としての機能を果たし、オステオパシック・フィジシャンは、1901年10月から1924年10月まで刊行された。
オステオパシー大学校連合会(Associated Colleges of Osteopathy)は、1903年8月6日~8日の「第5回通常会合」で、大学の視察(inspections)と認証(accreditation)を開始し、初代の大学校視察官にブース(ER Booth PhD,DO)が就任する。
1904年、倫理規定が採択される。オステオパシック・フィジシャンの別冊として人名録の初版が協会の賛助で発刊される。
1905年、米国オステオパシー協会(AOA)認可のオステオパシーの大学校における3年教育課程の必須要件が定められ、同年9月に発効する。
D.D.パーマーの無資格医療裁判敗訴の裏では、異種療法医とオステオパスたちがどのようにして組織化の努力を続け、社会的な地位を築いてきたかを明白にしたと思うので、そろそろダベンポートの状況を見に戻る良いタイミングだ。この続きは次号のお楽しみに。
D.D.敗訴の理由
1906年のスコット郡における無免許医療裁判での、D.D. パーマー敗訴に納得いかないのは筆者だけではなかろう。嘱託弁護士にカーヴァー(Willard Carver, LLB)を選んだB.J.の、ヒトを見る眼に狂いがあったとは思えず、アイオワ州知事に特赦を持ちかけた非凡なカーヴァー弁護士の才能も否定できないし、D.D.の熱弁も劇的だったであろうが、恐らくは既に裁判の勝訴が難しい社会状況であったと考える。反対勢力の中核となっていた異種療法とオステオパシーの状況を見てみよう。
60年ほど遡って、1846年に医師たちの組織が人口動態記録の、記載登録方法を分析する専任委員会を創設し、その委員会は複数の州政府に対し、それぞれの州の人口の範囲で出生、婚姻、死亡を登録する手段の採択を主張した。組織のデイヴィス(Nathan Smith Davis)によって、1847年、米国医師会(American Medical Association、AMA)が全米医療専門家組織としてフィラデルフィアにおいて設立され、世界初の倫理的医学診療の全国規定、すなわちAMA医療倫理規定を定めた。
1848年、AMAは、米国医師会報(Transactions of American Medical Association)の刊行を始め、それにはボストンのマサチューセッツ総合病院、ニューヨーク病院、並びにペンシルヴァニア大学診療所とジェファーソン医学校診療所での、エーテルとクロロフォルムの生理学的影響の一覧表と症例報告が含まれていた。
AMAは、売薬の危険について民衆を啓蒙し、それらの製造と販売を規制する立法を求めて叫び、一つの結果としての法令が1848年の薬品輸入条令だ。1849年の第二回会合において、ウッド(Thomas Wood)は、医療科学委員会が、評議員会を設立して偽妙薬と万能薬を分析し、それらいかさま治療薬の危険について出版し、民衆に知らせることを示唆した。偽療法といかさま薬を暴露するAMAの試みは、1906年に初めてとなる純粋食品医薬品条令(Pure Food and Drug Act)の通過を助けた。
1869年にAMAの倫理委員会は、資質ある女医の認知を主唱し、1876年にはイリノイ州医師会代表としてサラ・スティーヴンソン(Sarah H. Stevenson)をAMA最初の女性メンバーに迎えた。
1883年にジャーナル・オブ・アメリカン・メディカル・アソシエイション(JAMA)の発刊が始まり、AMA設立者のデイヴィスが初代エディターを努めた。
1897年、AMAはイリノイ州で法人化されて、1899年の種痘の義務化を必要とする法を要求してAMAは活動した。同じく1899年、AMAは結核について感染性と予防も含めて報告する委員会を指名し、1900年10月に結核調査委員会から報告書が発表された。
1901年、AMAは組織再編を行い、代表議会、評議委員会、そして業務執行事務局へと中心的権威を移行した。代表議会は、合衆国全土から医療団体の代表たちを含めて、公式に変革を意識した立法機関として米国議会下院を真似た。組織の新会長は、合衆国における医学教育を評価して改善策を提案する委員会を指名した。また、1901年にAMAの全国法律制定委員会は、医事法制委員会を設立した。
1905年、AMAは薬品製造と宣伝広告の基準を設定するために調剤と化学の諮問会を創設した。同年、薬品認可の任意プログラムを始め、1955年まで続いた。製薬会社は、AMAのジャーナルに薬品の広告を載せるために、それら薬品の有効性の証拠提示を要求された。
1906年にAMAは、米国の医師たちと同様に国内医学校卒業生および国外医学校を卒業して、合衆国にいる医師たちのデータを含む医師のマスターファイル(Physician Masterfile)を作成した。個別ファイルは各個人が医学校入学時か合衆国への入国時に作成された。
以上、1906年までの米国医師会による組織だった活動を列挙したことで、D.D.パーマーの無資格医療裁判が、アイオワ州スコット郡で行われた頃までには、医師たちがAMAのロビー活動を通じて各州政府にも影響力を持っていたのが明らかであり、アイオワ州知事による特赦が叶わなかった理由だろう。続きは次号のお楽しみに。
D.D.の有罪判決と服役
B.J.の主張で雇っておいた嘱託弁護士ウィラード・カーヴァー(Willard Carver, LLB)は、アイオワ州知事に特赦を試みたが、功を奏することなく、アイオワ州スコット郡で1906年3月27日に始まったD.D.パーマーの裁判では、D.D.が広報紙に記載した声明文が彼に対して不利に使われて有罪判決が下され、350ドルの罰金が課せられた。
判決を受けるに先立ち、D.D.はカイロプラクティックの発見と価値に付いて劇的な演説を放つ。そして同様に、医療法が公共の利益ではなく、医師たちの利益のために作られたことを述べる攻勢に出た。もしもD.D.パーマーが磁気治療師として、1886年でなくて1881年に仕事を始めていたなら、既得権者として法的に開業権が得られていたのが事実なのだった。
1906年3月27日に始まったアイオワ州スコット郡での裁判の判決でD.D.パーマーは、罰金を払う代わりに懲役刑に服役することを選んだ。タイプライターの持ち込みが許されて、D.D.はインチ幅40コラム(40 column inches)のカイロプラクティック関連の新聞記事を獄中で書き上げた。やがてD.D.は檻房受刑室での収監生活に飽きて、D.D.の5番目の妻メアリー・ハドラーが罰金を支払ってD.D.は釈放された。
釈放後、D.D.は学校に戻って数日は教鞭を取るが、学校の半分の持株を、元々3,500ドル要求していたのに2,196ドル79セントで売ってしまって、オクラホマ州メドフォード(Medford, OK)に移り、食料雑貨店を開いて繁盛した。
これにて一件落着の雰囲気だが、またまた話はそれほど単純に終わらない。以前にも言及したような「英雄医学」に批判的な風潮の影響もあってか、競合校の出現が増加する。しかし、競合校の名称を羅列だけすると、カイロプラクティックの激動期に登場する人物たちの、縦の糸と横の糸の関係も背景も判らぬままになるし、興味深い内容なので、もう少しオムニバス風に同時進行して、今後の話を進めるとしよう。
ウィリアム・シュルツ(William Charles Schulze)は、1870年ドイツに生まれ、1897年にラッシュ医科大学(Rush Medical College)を卒業する。このラッシュ医科大学とはシカゴ大学(University of Chicago )の医学部ではない。何故なら、ラッシュ医科大学は1898年までシカゴ大学とは合併提携していないからだ。シュルツは、以前にミズーリ州リバティー(Liberty, MO)のウィリアム・ジュエル大学(William Jewell College)に通学していたので、直ぐにイリノイ州、ミネソタ州、そしてウィスコンシン州で医師免許を得ている。
1905年頃、シュルツ医師(W.C. Schulze MD)は、非法人企業で運営していたアメリカン・スクール・オブ・メカノセラピー(American School of Mechano-Therapy)を1907年4月7日にアメリカン・カレッジ・オブ・メカノセラピー(American College of Mechano-Therapy (ACM-T))として法人組織にして、学長を務める。
以前に登場したソロン・M. ラングワーシーDCにO.G.スミスDCとミノラ・パックスソンDCが協力して1903年にアイオワ州シーダーラピッズに設立したアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック・アンド・ネイチャー・キュアと名称が似ていることに賢明な読者はお気付きだろう。
一方、パーマースクールでは、1905年後期、ジョン・ハワード(John F. Allen Howard)が9カ月コースに入学する。ハワードのパーマースクール入学がアイオワ州スコット郡でのD.D.パーマーの裁判が始まる前のことだから、二人に面識は有ったと伺える。
スコット郡での裁判の後、D.D.パーマーは、ミズーリ州カンサスシティーからダヴェンポートのジョン・ハワード宛てに1906年5月28日付けで手紙を送って、ハワードをカイロプラクティックの「有能で素質有る教師」とD.D.が考える旨を示唆した。
シュルツ医師とハワードの登場で今後の展開がどうなっていくのだろうか。続きは次号のお楽しみに。
D.D.無免許医療で起訴
二十世紀の初頭にカイロプラクティックの独自性を強調して基礎理論が完成しつつあった。それ以来の業界を色濃く印象付けた業界内の紛争は、未だ見られず、1902年まで、「ミクシング(“mixing”)」による業務範囲に関する不一致の兆しと、カイロプラクティック校間の最初期の競争も見られなかった。一方ではオステオパスたちが着実に組織力を強めていた。その一環として学校の視察が開始された。
1904年5月30日、B.J.パーマーはマベル・ヒース(Mabel Heath)と結婚する。マベルは1905年にカイロプラクティック学位を取得して、遂にはカイロプラクティックの第一線に立つ女性として知られるようになる。彼女はまた解剖学において認識された権威となり、パーマースクールオブカイロプラクティックで教授を務めた。
1905年1月にD.D.は広報誌カイロプラクター(The Chiropractor)の 第1巻第2号を発行した。これが後にスコット郡裁判所における有罪判決の根拠となる。そして1905年10月に、D.D.は無免許医療で起訴された。
1905年はD.D.にとって非常に悲劇的な年となった。と言うのは、妻のヴィラ(Villa)が11月にモルフィンの過剰摂取で突然死したのだ。D.D.に嫁ぐ前に、一度病気になったとき彼女はアヘン剤で薬物治療を受けていた。結果として彼女はアヘン中毒になった。モルフィンが違法薬物でなかったから、当時は珍しい出来事ではなかった。またヴィラは以前に事故で背骨を骨折して、痛み止めにモルフィンを使っていた。
この間に、カイロプラクティックの競合校が近郷で2校開設される。1905年2月15日、カーヴァー弁護士(Willard Carver, LLB)は、暗示療法(suggestive therapeutics)を教育課程に含むことをD.D.に勧めた。1905年にパーマー診療所はブレイディー通り(Brady St.)828番地に移転する。
ダヴェンポートビジネスカレッジの所有者ダンカン(J.C. Duncan)は、1906年にブレイディ通り828番地を7,600ドルでパーマー家に売却した。1907年7月21日、ダンカンはブレイディストリートヒルの頂上区画を買って、そこに自分のダヴェンポートビジネスカレッジの3階建て煉瓦ビルを建てる計画をした。パーマースクールに隣接し、無原罪懐胎学院(Academy of the Immaculate Conception)のすぐそばで、この開発はブレイディストリートヒルの頂上を街の教育の中心にするものだった。ダンカンは暫く前に住宅用に買っていたブレイディ通り834番地を1910年にはパーマー家に9,800ドルで売るのだった。
1906年1月に、D.D.は5番目の妻メアリー・ハドラー(Mary Hudler)と結婚し、同年、孫のデイヴィッド・ダニエル(David Daniel)がB.J.とマベルの間に生まれた。この末頼もしく思える年なのに汚点の様に過去の告訴がD.D.の頭に未だ被さっていた。
ここで少し振り返ってみると、H.H.ライリングの訴訟は1901年1月15日に却下されたが、ライリングの取り扱いから訴訟に至るまで、何故か法的に無防備なD.D.の姿が印象に残っている。
1906年3月27日にD.D.パーマーの裁判は始まり、B.J.の主張でウィラード・カーヴァー(Willard Carver)に依頼料を払って、D.D.の弁護士として雇っておいた。当時、カーヴァーは、パーカースクールオブカイロプラクティックでの教育を終えつつあった。委任弁護士としてカーヴァーは、弁護を補助するための示唆数件をパーマー家に提示した。それらの提示には、医師を雇って学校の商務と、パーマースクールから送り出される出版広報物の編集を管理させることと、学校とその内容物がB.J.の妻マベル・ヒースに移管されることが含まれていた。またカーヴァーは、アイオワ州知事に会ってD.D.の特赦の手配をも試みたが、明らかに上手くいかなかった。
この続きは次号のお楽しみに。
新たな発見と理論の修正(123号掲載)
オステオパシーの創始者A.T.スティルは、D.D.パーマー(以下、D.D.)の背景である磁気治療と観念論(spiritualism)への興味を共有していた。D.D.は、カイロプラクティック治療に関わる自身の理論を発展させたときに、磁気治療師としての経験から影響を受けたらしい。磁気治療師たちは、妨げられていないスムーズなエネルギーの流れが健康に貢献し、阻害された流れが病いを生じると信じていた。
また病気の一般的原因に神経系の機械的、化学的、そして自己暗示(心因性の刺激炎症)の三種類があると仮説をD.D.は設けた。更に神経系には正常な、あるいは最適の調子(tone)があるべきで、この調子の如何なる変更でも病気や疾病の原因になり得ると理論立てた。D.D.の初期の理論の一つは、炎症がほとんどの人間の病気の中核にあると述べている。これは、多くの疾病に関して現代の医学的な考え方に矛盾しない。
D.D.は調(Tonus)への執着を示していた。 それをB.J. パーマー(以下、B.J.)が1935年に「サブラクセーション・スペシフィック、アジャストメント・スペシフィック」で分節理論として創始者のアジャストメント概念を主張した。 すなわちカイロプラクティック創始者のアジャストメント概念が「明確なサブラクセーション、特定のアジャストメント」で表されて、分節特定的なアプローチであることがわかる。
D.D.の最初のカイロプラクティック理論は、含蓄と応用においてスティルのオステオパシーの仮説と適用と同様に広範囲だが、オステオパシーと同義ではない。スティルは、脳からの内在性治癒物質が循環を通して、また神経を通して、最終器官に達すると信じて、その流れを遮断する如何なる体の部分でもマニピュレートした。一方、D.D.は、炎症を避けるなり緩和するために変位した解剖学的構造を整復するゆえにマニピュレート(D.D.の最初の専門用語)したと記されている。
D.D.の理論と臨床をサブラクセーションだけに狭めることを勧めたかもしれないような政治的理由があった。 オステオパシーの業界人たちは、スティルが創始したオステオパシーの概念をD.D.が横取りして、カイロプラクティックとして包み変えた泥棒のラベルを貼って、D.D. 追及の長広舌をしつこく続けていた。オステオパシーの概念を盗んだと非難されたD.D.は悩まされ続けていた。
1903年7月にD.D.はもう一つの「発見」をし、それがD.D.のカイロプラクティックの概念に重要な削減を生じたのだ。少し説明を加えると、人体の体温調整は第一に(循環系というよりもむしろ)神経系の現象と決めることにより、D.D.は彼なりの病因説を、骨組織による神経の圧迫を必然的結果として伴う解剖学的変位、すなわちサブラクセーションだけに限定した。リラードの症例のときからD.D.はこの概念を抱いていたが、1903年以降、それがD.D.にとって排他的にカイロプラクティックの適用症状として作用した。
全ての病の95%が脊椎サブラクセーションの作り出した神経干渉により引き起こされているとD.D.は示唆した。 このカイロプラクティックで二番目の理論を「ホーズの上の足(foot-on-the-hose)」の古典的な比喩でD.D.の息子であるB.J.が流行らせたのだった。
カイロプラクティックの父は、神経に対する微弱な圧力と多大な圧力の影響の差を発見した最初の人物としてB.J.を評価した。
軽い圧力は、機能的な活動で炎症、すなわち過剰な熱を起こし、大きな圧力は麻痺、すなわち機能の欠落を引き起こす。この新しい考えが、多くの光をもたらした。治療家が患者の神経を多かれ少なかれコントロールすることで、何故に心と体の電磁的影響が、神経の機能を正常な活動量に戻したのか説明している。
新世紀が始まって「カイロプラクティック哲学」の神聖化は、無資格医療で訴えられた一DCが1907年に無罪放免されたのと1908年に最初のPhC(“Philosopher of Chiropractic”)学位の授与をまだ待つのだった。
次号に続く。
脊椎アジャストメントとカイロプラクティック哲学(122号掲載)
D.D.パーマー(以下、D.D.)は、脊椎マニピュレーションが数千年にわたって存在してきたことを躊躇なく認めた。彼の貢献は、特定椎骨アジャストメント、後の業界並びに臨床哲学の発展にある。そのアジャストメントのコントロールを彼は次のように述べている。
カイロプラクティックの原理が展開された基盤となる基本原理は新しくない。それらは背骨と同じ位に古い。私は、その声明を印字と口伝えの両方で繰り返し述べてきたが、いま最も強調して繰り返す。私は、亜脱臼した脊椎を元の所に戻す最初の人物ではない。何故ならば、この技能は数千年にわたって行われてきているからだ。しかし、位置を変えた脊椎骨を、棘突起と横突起を梃子に使って正常な位置にラックするのは私が最初であること、そしてこの基本的事実から、治癒技能の理論と実践に大変革を起こすと運命づけられた科学を創造することを主張する。
棘突起と横突起を梃子に使って不整合な椎骨を整合する最初の人物であるというパーマーの主張は討議と熟考の余地があるかも知れない。ドゥチェインバーの1887年版辞書が同様のことを述べていて、D.D.がこのことを知っていたかはわからない。ラックという言葉は、取り分け、歯車か刻み目のあるレールを意味することを知られるべきだ。パーマーは椎骨のアジャストメントを時計の歯車か機械のギアを上手く噛み合わせるように記述していた。これは、可動が制限された関節を治療するために、非特定的なマニピュレーションが用いられるのに対して、特定的に正確な調整を行う手順を述べている。
D.D.は、また上部脊椎の重要性を高く評価して言った。カイロプラクティックの治療経験が増えれば増えるほど、より多く研究して、この課題についてより多くを知って考えるほど、上位5胸椎と頸椎を任せてもらえたら、患者の体の他の部分はお好きなようになさろうとも、自分はそれらに触れず、患者に病気を切り抜けさせられると確信する。
リラードが患った障害は、骨が神経を圧迫するという例であり、この典型的理論の枠組みが規範としてカイロプラクターたちの考えを支配することになった。後に、1902年までにD.D.は、カイロプラクティックの思想を支配するようになり、骨が神経を圧迫するという考えに益々集中していった。1903年まで、D.D.のカイロプラクティック理論に最初の大きな変化は現れず、1904年まで「内在知性」は公にされていない。
D.D.は、単にこれらの理論を神経系と、人体固有の生来の治癒能力を意味する内在知性とかの概念に方向づけたのだ。D.D.は、神経系を内在知性が流れて機能する通り道だと主張した。彼の哲学は、全ての生命に内在知性が備わっていること、及びこの力が身体的健康の構成と維持を担っていることを述べている。カイロプラクティック治療の目的は(サブラクセーションが原因で引き起こされた)神経系への干渉を脊椎アジャストメントの方法で取り除くことなのだ。これが内在知性を最適の能力で作動可能にさせて、神経系が治癒を高めることが提案された。主流派のカイロプラクターたちは内在知性を、霊的生命力ではなく、身体に生来備わる治癒力と見ている。
D.D.は磁気療法の理論を採用して、それをボーンセッターのサブラクセーションの概念と組み合わせたと思われる。これが、不整合な椎骨が内在知性の流れを阻害して病気を起こすと提案したヘルスケアの一形態になった。
整合性を修復された解剖学的構造は、それ自体をより良く、より機能的に形状を改善するものなのだとD.D.が提案したこと、そしてこの骨学的構造物に掛けられるストレスが形状を決定するとD.D.が予想した整形外科的概念においてもD.D.の考えはユニークであった。
次号に続く。
トーマス・ストアレイのミステリー(119号掲載)
1902年に若いB.J.パーマー(以下、B.J.)が無資格医療で起訴されて、精神的サポートを必要としていたときに、D.D.パーマー(以下、D.D.)がダベンポートを去った少なくとも表面上の理由であったトーマス・ストアレイの神秘的な失踪に関する記事をD.D.自身が1905年の広報誌カイロプラクターに載せている。その話は後に地元紙ダベンポート・デモクラット・アンド・リーダーで再び語られている。
ミネソタ州デュルース出身のストアレイは1901年にD.D.に師事した。D.D.が胸椎と腰椎に限ってアジャストメントを教えていた頃に、学生のストアレイが頚椎をアジャストするための木槌と楔を考案した。ストアレイはこの方法をダン・リースランドに教え、それをリースランドはミネソタ中に広めた。失踪する前にストアレイはデュルースで非常に大きく繁盛していた。
まもなくストアレイは再び新聞に出る。今度はアジャストを受けて約1時間後に患者が死亡したのだ。このときストアレイはロサンゼルスで開業しており、まだ木槌と楔のテクニックを使っていた。彼は正統でないテクニックを他にも使っていて、その中には拘束具か絞首索を用いて天井から吊るし、患者の体のあちらこちらに優しくとかとかでなく、重い木槌を用いる方法が含まれていた。またストアレイは約一年前に患者虐待の告発で逮捕されたが、罰金で済ませたことを同紙は報じた。その患者は、絞首索で首から宙吊りにされて大槌で背中を打たれたということであった。
サン・バナディーノ近郊の農夫ドメニック・プレマスは、「腎臓と肝臓」を長らく患っていて、友人の助言でストアレイに診てもらいに来たのだ。5回の治療を受けてその最後が1907年10月1日で、妻が付き添った。彼女は報道陣に言った。ストアレイが彼女の亭主の脊椎の間に重い木製の錐を挿し込み、それを重い木槌でガンガンと叩いて拷問し、また両手を背骨の上に置いて上下にジャンプして、腰のくびれた部分に全体重を投げ掛けた。その早朝には、プレマスは歩行に問題無く論理的に話し、たまに木槌の痛みを愚痴っていた。ストアレイと一緒に15分居て、1時間後にプレマスは、治療の期間に妻と泊まる宿屋のベッドに寝そべっていたが、「錐」が押し込まれた個所に両手を当てて苦痛の呻き声を出し始めた。妻の介抱する間もなくプレマスは痙攣状態になり、叫びながら背中の痛いところに爪を立てた。遂には、叫び声を上げてベッドから跳んで降りて、床を転がり回り、数秒の内に死亡した。
翌日、死因は結核による肺の出血と判明した。しかし、検死解剖の担当医は、被害者が受けた治療は「弱っている人には激し過ぎる」と確信した。同じ日にストアレイに対する医療条例違反で訴えた。逮捕を避けるためにストアレイはメキシコに逃亡し、1908年3月まで留まった。
B.J.はこの悲劇的な症例を用いてストアレイが使ったような英雄的な手段に伴う危険を描き出す。ストアレイの方法を強く非難する一方で、ストアレイを「人付き合いの良い、善人で、PSC卒業生」と評した。彼が就学した当時は学校が「頚椎サブラクセーションをアジャストする方法論を未だ明瞭にしていなかった」故に木槌と楔でアジャストする方法を考え出したのだ。
医療条例違反での逮捕を避けて1908年3月までメキシコへ逃亡した件についてどのようになったか定かではないが、ストアレイはカリフォルニア州で教育と臨床に関わっていた。彼の患者ですぐに彼の生徒になった者たちの一人がチャールズ・ケイルであり、ロサンゼルスカレッジオブカイロプラクティック(LACC)を1911年に設立した。
もちろん、競合校の出現はLACCの設立を待つまでもなかった。実際は競合校の乱立が妥当な表現であろうが、ダベンポートに戻って詳しく見てみよう。そしてサンタバーバラでD.D.に合流したオークリー・スミスとミノラ・パックスソンは、D.D.がサンタバーバラを去った後にどうなるのかも探ってみよう。
続きは次号のお楽しみに。
争いの余波(118号掲載)
ハインリッヒ・マッセイMDとの論争がもとで仕組まれたと言われるH.H.ライリングの訴訟は1901年1月15日に却下されたのだが、訴追と民事訴訟の恐れがD.D.パーマー(以下、D.D.)の心に載し掛かっていたのは明らかで、D.D.の心理状態が彼の行動に現れてくるようなのだ。
B.J.パーマー(以下、B.J.)は、学位を授与される前からアイオワ、ミシガン、ウェスト・バージニアの各州でカイロプラクティックの臨床に関わっていたが、1902年1月6日の卒業を機に父親の学校兼併設治療所で臨床に携わった僅か3カ月後の4月16日、医療免許無しに治療するとか治すとか主張した咎で起訴された。
B.J.が法的闘争に晒されている最中のこの時期、驚いたことに、D.D.は自分の身の周りを全て片付けてアイオワ州を後にするのだ。D.D.は同様の法的処置が自分自身にも及ぶことを恐れたのかもしれないが、Thomas H. Storey, DC(以下、ストアレイ)の家族から緊急のメッセージが入っていたのだ。ストアレイは初期の卒業生の1人であり、突然の失踪なので、家族がストアレイの捜索を頼んできたのだった。
1902年5月、借金まみれのパーマースクールと併設治療所の指揮を任されたのは、創始者の息子、B.J.だった。僅か数ヶ月前に父親からカイロプラクティックの卒業証書を授与されたばかりで経験不足だった若いB.J.を満悦と悲痛の日々がこれから訪れるのだが、短期間で特別な才能の兆しがみられた。21歳にも満たなかったB.J.は、彼の父親への徒弟奉公の産物であったばかりか、旅回りの演芸催眠術ショーを運営していたハーバート・フリント教授の兄弟分であった。B.J.はD.D.が留守にしている施設の「マネージャー」として統治を掌握し、ビジネスの為の融資を集めて、数年で学校の経営を黒字に戻したのだ。
B.J.がパーマースクールの運営を掌握する一方、1902年6月にD.D.はアイオワ州ダベンポートを去る。1904年頃のB.J.の記述によると一年半程前の1902年にD.D.がストアレーの精神異常を治療にパサデナに向かったことが確認できる。ダべンポートから数日掛けてカリフォルニア州パサデナにD.D.は到着する。
友人で弟子のストアレイが精神障害を患っているので、捜し出して助けるというのが表面上の理由だったが、D.D.がダべンポートを立ち去った本当の理由は、アイオワ州における法的並びに経済的な困難ともっと深い関係があっただろうと思われるので、すぐにカリフォルニア州でもD.D.が法的問題に直面するのは皮肉なことだ。
B.J.が無免許医療で訴えられているときに、D.D.は親として我が子に精神的なサポートを与えないばかりか、自分自身へのとばっちりを恐れてアイオワ州を去ったのだとすれば、投獄された経験のあるD.D.にとって告発や訴訟の法的問題は避けたかったのだろうが、親子の愛情の機微に疑問が湧く。
D. D.は遂にストアレイを見つけ出し、その後、D.D.はパサデナを去って、カリフォルニア州サンタバーバラにカイロプラクティックカレッジを設立する。オークリー・スミスDC(後にナプラパシーを創設)とミノラ・パックスソンDC(初の女性カイロプラクター)が教員としてD.D.に合流した。しかし、1903年11月中旬にカリフォルニア州医療審査委員会から法廷に提出された「無免許医療」の告発に圧力を感じてD.D.はサンタバーバラを去った。
1903年の暮にダべンポートに戻ったD.D.は、若さと経験不足の理由でパーマースクールの留守を預からざるを得なかったB.J.と学校に関して同等合資会社の契約を結び、それは1906年5月まで至る。
さて、D.D.の出奔を止むなくしたストアレイの突然の失踪の原因である精神異常はどうなったのか、謎は深まる。
この続きは次号のお楽しみに。
衝突の火種②(117号掲載)
マッセイの論争は続く。「彼等を何と呼ぼうと構わない。クリスチャン科学者、磁気治療師、カイロパス、病気の祈祷師、予見者、夢遊病者、降霊術者、手相見、自然療法家、癌医者、整骨医。彼等は皆、最も底辺レベルの詐欺師達であり、売薬製造業者や宣伝を出している偽医者や研究所と見分けが付かない。その宣伝の印刷物によって自滅に追いやられた者もいれば、精神異常者保護施設に監禁される者もいる。この影響で心を病んでしまった不幸な人達を診る医師の経験は、危険の存在を告げ、我々の文明化された国におけるこの状態に対して掃討戦を遂行する…。
もう一つの標本が磁気治療師、あるいはカイロパスだ。覚えておいていただきたい。この怪物は、天国に有ると主張する卒業証書が自身に超自然な力を賦与すると断言していること。その様な戯言が受け入れられることはおおよそ不可能に思えるのに、それが事実であること。奴の死の谷に安堵を探し求める不幸な患者達に同情する…私の視野には結末が一つだけあり、それは同じ様な偽物の被害者にならないように、成長している世代に教えることだ。」
ひどく立腹したD.D.パーマー(以下、D.D.)は宣伝誌The Chiropracticの1899年度版を半分近くもマッセイからの非難に対するシステム的な反論に使った。彼等の公開論争は数年続くことになる。
シカゴ出身の青年H.H.ライリングがパーマースクールへ入学したのはマッセイの策略であった可能性がある。ライリングは1900年3月に500ドルの授業料を払うと、直ぐにD.D.をインチキ呼ばわりし始めた。学校敷地内から立ち去るようにD.D.が命じても、ライリングは授業料返却なしで退去を拒否したので、D.D.が警察に通報し、ライリングは逮捕された。しかし、D.D.は苦情書の提出を怠った故に誤認逮捕の責任で訴えられることになる。ライリングは、教育内容の説明を不正確に伝えたことでD.D.を訴えた。
ライリングの事件は、もう少し尾を引くことになるのだが、1901年、S.M.ラングワーシーとT.H.ストアレーがパーマースクールを卒業し、1902年にはB.J.パーマー(以下、B.J.)がパーマースクールを卒業する。
オークリー・スミスとミノラ・パックスソンとの関連で名前を出したソロン・ラングワーシーについて述べるに好いタイミングだ。ラングワーシーは、病気を無投薬で治す様々な療法を学ぶことに傾倒していた。
その一環としてミズーリ州カンサスシティのアメリカン・カレッジ・オブ・マニュアル・セラピューティックス(American College of Manual Therapeutics)から卒業証書を授与された。後にD.D.のアジャストメントを2週間受けた彼の妻の精神病の状態が変化したことが良い刺激となったのであろう。D.D.の日誌には1901年1月10日と1月17日に アイオワ州デュブーク(Dubuque, Iowa)のS.M.ラングワーシー夫人が記されていて、ソロン・ラングワーシーは友人であったD.D.に治療費の15ドルを支払った。その年の7月1日にラングワーシーは、カイロプラクティック・スクール・アンド・キュアでの教育課程に通常の授業料500ドルをD.D.パーマーに支払っている。
1902年1月19日付けでラングワーシーはB.J.に書簡を送り、「カイロプラクティックとオステオパシー」を教えていることを示唆するとともに、D.D.とB.J.並びにO.G.スミス達とのパートナーシップを提案して、同年の4月にB.J.はラングワーシーとアメリカン・カイロプラクティック・スクール・アンド・ナチュロパシック・キュア(American Chiropractic School and Naturopathic Cure)におけるパートナーシップについて話し合い、自然治療(Nature Cure)に関するラングワーシーの本を数冊携えてD.D.のもとに戻った。
D.D.の息子バートレット・ジョシュア・パーマー(Bartlett Joshua Palmer)はライアン・ブロック・ビルの地上階に在ったサントンジェ(St. Onge’s)百貨店で販売員として以前に働いていた。
B.J. は1902年1月6日に卒業した4人の内の1人であったが、B.J.はまた、学位を授与される前からアイオワ、ミシガン、ウェスト・ヴァジニアの各州でカイロプラクティックの臨床に関わっていた。
続きは次号のお楽しみに。
衝突の火種(116号掲載)
アイオワ州では1886年に医療条例が可決されていたが、施行されることは稀だった。その理由は、恐らく長期に渡って大衆が、医療分野のどの一部門からも排他的な権威を受け入れることを嫌がり続けていたからだ。正統医学は、やっと科学的な権威を樹立し始めたばかりで、医薬品の無作為比較試験が臨床的に初めて行われるのが、まだ40年近くも先のことなのだったから、多くの点で医療に関するD.D.の痛烈な論評は大衆の意識を忠実に映し出していた。
D.D.は「医薬と医師は必要であり、彼等なしではやっていけない(Palmer, 1896)。」と述べて医師達に多少の手加減をしたが、投薬はいつ適当と考えるか明示することを怠った一方で、D.D.は、原始的で危険な方法と彼が考えたことを強く非難するのに遠慮なく言葉細かくはっきりと言った。医学界の競争相手を激怒させたに違いない表現とは、つぎの通り。
①医学は科学か?
「医学は科学でないばかりか、最も実験的な当てずっぽうであろうかとの疑いが、市民の心の中で長年に渡って大きくなっている。病人を毒殺するこの古代のシステムは、合法的権利を持ち、我々の社会の救貧院、キーリー研究所(Keeley Institutes)、そして保護施設を彼等の毒の被害者で満たしている。被害者達は興奮剤、鎮静剤、更には麻薬を、使用継続せねばならなくなるか、更には自己壊滅するまで服用させられる。誤り導かれたこれらの不幸にも半分生きている具合の、医学の不適任さの証人達は何処にでも見られる。消耗性の病いと早死にが、医学の技能(とやら)を公然と侮り、より頻繁に起きている。最も単純な形態の発熱が家庭内に広まると、医学の科学(とやら)が幼少期であった二千年前と同様に、死と悲しみを残す。病人が楽になる為に普通の医学の同業者仲間のもとを去り、『偽医者』と貶される者のところへ行くのは全く不思議でない(Palmer, 1896)。」
そして「有害薬物を使う医者達は、明瞭明白な言葉の代わりにラテン語で書かれた処方を出して人々を無知のままに保とうと願っている。その処方が何を招くのか、貴方が知っていたら、貴方はそれほど頻繁に快く進んで両目を閉じて、口を開け、何であれ医者が処方したものを飲み込んで、酷く恐ろしい結果を甘受することはなかろう。そのように命取りの毒を摂取することを止めて、自然な手段に助けを求めないのは何故だろうか? 誰かが病気なら、その人に毒を与える理由が何かしら有るのだろうか? 世間の人達は薬物の影響を受けることに辟易している。
人々は全ての医療法が『公衆を偽医者から守る』為に作られたと信じ込まされてきた。しかし、これら医療法は、本職の偽医者によって自分達自身の保護のために枠組みされているのが事実なのだ。これらの法によってどの学校の卒業生を医師として従事させるかを決め、これら好まれる学校からの卒業証書一枚で、害されてもいない者に毒を与えて虐殺することを専門とする、如何なる阿片中毒や酒浸りの偽医者でも保護される…。」
②法を活用せよ
「もしも医療審査委員会がその名の意味するものであるなら、この危険な医学の流行を我々に押し付けようと努力する代わりに、委員会の法律趣味を少しでも使って抗毒素の製造業者に対して禁止令を発するだろう…我々は、薬物の専売権と多寡が危険な当てずっぽうに過ぎぬ医学による支配統治がとことん嫌になっている…外科医達はヒトの構造を学習し、内科の連中はヒト以外の全てを学び…医師達、特に内科医の連中は自分達がろくに知らない薬物を更に知らない人体に注ぎ込む…特別な階級の学校でなく、人民を守る為に法律たるものは制定されるべきだ(Palmer,1897)。」
D.D.の強い言葉は、地域の異種療法医ハインリッヒ・マッセイ(Heinrich Matthey, MD)から同様に過度の論議にあった。地域社会から無資格療法家達を一掃することに傾倒していたマッセイは1899年9月17日付けダヴェンポート・リパブリカン誌に意見を述べた。
「我々の偉大な共和国でこの壮麗な新世紀が始まるときに、哀れを催すあさましい光景が出現した。一方では全科学分野における素晴らしい光明と人類への恩恵が見られ、他方では詐欺なんかを疑うこともない場所である病人の枕元においてですら詐欺行為の小細工をし続ける破廉恥なペテン師達が騒々しく勢揃い。我々は皆この悪事に気付いているが、今は実際にどうすることも出来ない…。」
続きは次号に。
初期の教育と理論(115号掲載)
20世紀初頭、ダヴェンポートでのカイロプラクティック教育課程の学費は500ドルで、最高の医学校での授業料に近い金額であったが、内容は僅か二、三ヶ月のトレーニングを要するものであった。パーマースクールの1899年卒業生で後に競合的専門域のナプラパシーを創始したO.G.スミスは、自身がD.D.から受けたカイロプラクティック教育を徒弟奉公程度に振り返っている[Beidman,1994]。初期のカイロプラクティック教育には原始的な性格が有った[Gibbons,1980]。
しかし、高次専門教育を比較する観点に於いては、当時のアメリカでは多くの医学校もまた原始的で、ほとんどはアメリカ合衆国とカナダでの医学教育に関してカーネギー基金へ提出された歴史的な報告書[Flexner,1910]の作者フレックスナー(Abraham Flexner,PhD)によって呪われていた [Keating]。ちなみに、米国の医学教育で2位と言われているジョン・ホプキンス(John Hopkins)大学学長のエリオットが医学部長に書簡を送って、なぜ筆記試験が無いのかを尋ねたら、医学生達の筆記解答が読めないからと回答が返ってきたのだ[Morgenthal,1988]というほどであった。
1897年にパーマースクールアンドキュアを開設したD.D.が1902年にダヴェンポートを去るまでに、D.D.の下で卒業したパーマースクール初期の卒業生は多くない。決して受講生が一回に3人を超えない[Palmer,1910]ようにしていたことは、卒業者の表を見れば明らかだ。D.D.は彼なりに最善の努力を尽くしていたのだと思われる。D.D.はカイロプラクティックの原理の解明と探求に懸命であったであろう一方で、D.D.の心を悩ます出来事が起きていた。ラングワーシーやB.J.に触れる前に、1900年に入学したライリング(H.H.Reiring)の事件に付いて述べたいが、その背景から説明する。
1886年に磁気治療家に成ったD.D.はアイオワ州バーリントンからダヴェンポートに移り、1895年9月18日水曜日午後4時に最初のアジャストメントを行なった結果、ハーヴィー・リラードが重度難聴から回復したことでカイロプラクティックが始まったのだが、理論説明を迫られていたD.D.は翌1896年に、摩擦熱を下げる為に全てのボディーパーツのマニピュレーション(アジャストメントに同義)を行なうと説明した。この最初のカイロプラクティック理論は、D.D.パーマーの9年に渡る磁気治療士としての臨床経験からの派生であり、炎症を病気の本質的な特徴と捉えていたD.D.は、変位した解剖学的パーツ間の摩擦によって体内に炎症が生じると提案した。
この最初の仮説と仮定の一式は明らかに機械的な視野から構成されていた。パーマーは人体を高級時計になぞらえて、自らを「人体の修理工」[Palmer,1897]と名乗っていた。やがて現われてくるのが調子の概念であり、D.D.はそれを自身の最終的なカイロプラクティック理論で最も重要と考えた[Palmer,1910,1914]のだが、1901年の時点でD.D.はまだ最初の理論を教えていた[Keating]。そしてD.D.は骨組織による神経圧迫に排他的な関心を持っておらず[Keating, 1995]、変位したとみなした解剖学的組織は動脈、静脈、神経、筋肉、骨、靭帯と関節を含めて、整合性を回復する為にマニピュレーションを行った。D.D.パーマーが彼自身の当時の用語であった治療(“treatment”)の為に受け入れた患者の症状の範囲はスティル(A.T.Still)のオステオパシーと同様に広範囲であった。
これら二者のマニピュレーション技能の理論的な基盤は別個であったにもかかわらず、1897年1月の広告紙で「癌の原因を見つけたら、血管と神経への圧力を緩和するのは簡単なことだ。血流が自由になり神経圧迫が取り除かれ、分泌と排泄が完全になるように人体を自然な状態に整えると、患者は良くならざるを得ない。言い換えると、もしも人体の組織機構の様々なパーツが全て正常ならば、分泌と排泄も完璧で、全ての不純物は裏口から投げ出されて、他に出口を見付けることは無い[Palmer,1897,p.2]。」と癌の治療を説明したD.D.の理論はオステオパシーの概念に酷似していた。
この続きは次号のお楽しみに。
最初のカイロプラクティック・ライセンス(114号掲載)
アメリカ合衆国に於けるカイロプラクティック法規の始まりは古く、1899年のイリノイ州医療条例にカイロプラクティックの合法的な臨床を許可する初めての法的文言が含まれていて、その法の下で「その他の治療家」を意味する〝OP〟として、「カイロプラクティック学校ダヴェンポート」卒業生ミノラ・パックスソン(1855-1950)が1904年5月24日にイリノイ州免許証438番を獲得した[FCLB] 。そして、O.G.スミスは自身の無投薬療法をカイロプラクティックと宣言して、パックスソンと同じ日にイリノイ州医療条例の下に免許証440番を交付されている。
ミノラ・パックスソンは、イリノイ州デュペイジで両親エイモスとエリザベスのもとで1855年7月11日に生まれた。エイモスは1868年に自分の農地を売って家族でロックポートに移り、郵便局長を4年間務めた。1875年にミノラはシカモア・スクール(Sycamore School)で教職に就き、退職してロックポートの実家近くの小学校に移り、低学年と中学年を受け持った。2年後にイリノイ州ブルーミントンで教職に就いたが、病気の母親の面倒をみる為に結局はロックポートに戻った。
D.D.パーマーのカイロプラクティック・スクール・アンド・キュアで1900年にカイロプラクティックの学位を受けたミノラ・パックスソンは、D.D.の2番目のカイロプラクティック・カレッジとして知られる、カリフォルニア州サンタバーバラのパーマー・カイロプラクティック・スクールで教育者としての人生を始めた。
その後、ミノラは、パーマー卒業生のオークリー・スミス(O.G.Smith,DC)とソロン・ラングワーシー(S.M.Langworthy,DC)の協力を得て、1901年にアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック(ASC)をアイオワ州シーダーラピッズに共同設立した。また3人はアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック・アンド・ナチュラル・キュアをシーダーラピッズで始めた。 ASCに於いて、パックスソンがカイロプラクティックの学校では他に先駆けて産科学と婦人科学を教える最初の教授の座に就いた。またパックスソンは生理学と症状学の講義も担当した[PCC]。そしてミノラ・パックスソンは無投薬ヘルスケア提供者を規制したイリノイ州医療条例の下に公的な開業免許を得た最初のカイロプラクターであった。
1905年にO.G.スミスがASCで顕微鏡下にリガタイトを発見し、ナプラパシーの科学的根拠を確証し、シカゴ・カレッジ・オブ・ナプラパシーの基盤を確立した数週後に、ミノラ・パックスソンは彼女のライセンスをシカゴに移した。よって、二人はもはやラングワーシーのアメリカン・スクール・オブ・カイロプラクティック・アンド・ネイチャーキュアとの関係が無くなったと推測する[Zarbuck]のが妥当であろうが、1906年にパックスソンとスミスとラングワーシーの3人は、最初のカイロプラクティックの教科書「近代化されたカイロプラクティック(Modernized Chiropractic)」を共著した。
1907年頃、ミノラはシカゴ出身の土建業者ジョージ・ヒンクリフ(George Hinchliff)に嫁ぎ、1910年の国勢調査ではヒンクリフと彼の子供達と共にシカゴに住んでいた。1912年頃、一家はテキサス州ヒューストン地域に移った。東西テキサス鉄道のヒューストンから80キロ北東のリバティー(Liberty)郡にエクセルシオール(Excelsior)の街があった。エクセルシオール郵便局が1912年に設立され、その年の6月にはミノラ・パックスソン・ヒンクリフの指示で街の設計図面が描かれた。街を取り巻く深い森林の中を多数のトロッコ線路が縦横に走り抜け、ジョージ・ヒンクリフがエクセルシオールで製材所を操業した。 しかし、郵便局が1917年に廃止され、地域は捨て去られた。
ミノラ・パックスソン・ヒンクリフは95歳の誕生日を目前にして1950年7月19日にこの世を去った。最初の公的なカイロプラクティック・ライセンスを受けた上に、数々の「初めて」を成し遂げたミノラの功績は大きい。
さて、サンタバーバラのD.D.の学校はどうなったのか、またラングワーシーとアメリカン・スクールはどうなったのか、深まった謎を解くために一先ずダヴェンポートに戻るとしよう。この続きは次号のお楽しみに。
ナチュロパシーとナプラパシー(113号掲載)
二度ほど言及したナチュロパシーとは、「自然」、「非侵害的」、そして「自然治癒」を促進すると焼印された一連の療法を用いる擬似科学的な補完医療の一形態であり、そのイデオロギーと方法は科学的根拠に基づく医学よりも寧ろ生気論と民間療法に基づいている。一般にナチュロパシー療法家は医学検査、処方薬、ワクチン、外科手術に限らず、近代医学療法を勧めないが、ナチュロパシーの学問と療法は非科学的な考えに依存し、往々に事実に基づく長所に欠ける診断と治療に至る[ウィキペディア参考]と言われている。
医学の専門家達はナチュロパシー療法を非効果的で、殊によると有害と考え、その実践に倫理的問題をあげている。例えば米国癌協会と云った医学界からの非難に加えて、ナチュロパシーの臨床家達はニセ医者であることとインチキ医療行為で繰り返し告訴されている。長年に渡り多くのナチュロパシー医療家が、世界中の法廷で刑法責任を問われていて、ナチュロパシーを用いる療法家と医師達が自らを医学の専門家と称することを犯罪と見做す国もある[ウィキペディア参考]。
ナチュロパシーを非科学的と全否定するのは疑問に思える。 民間療法はリサーチが不足な一方、古来からの経験則を無視するのは勿体無い。未科学と非科学は異なる。 生命と健康を守るのが責務である医療家が、ドグマに支配されることが最も非科学的だろう。
さて、話をパーマースクールに戻そう。1899年卒業のオークリー・スミスDCは、1880年1月19日アイオワ州ウェストブランチの農場に生まれ、4歳迄は元気だったのに、猩紅熱に罹り次の16年は酷い発作を生き抜いたけれど、成長を阻害された青白く虚弱な若者であった。 両親のロバートとアンは裕福だった故、誰かれ知り合いが耳にした新しい医者という医者へオークリーを送り、異なる医薬を試し、あちこちの温泉も試したが、健康状態は良くならぬままだった。 そのオークリーがD.D.パーマーのアジャストメントを受けて楽になったのだ。
18歳でダヴェンポートのパーマースクールアンドキュアに入学したオークリーは、やがて、もっと結合組織の治癒と修復に焦点を合わせた彼自身の理論をパーマーの脊椎サブラクセーション概念の上に発展させた。 B.J.と同じ程の時間をD.D.と過ごしていたと言われたオークリーだが、1899年にパーマースクールを卒業後に、自身を治療する方法を学ぶ期待から、19歳でアイオワ大学医学校に入る。 そこで彼は解剖学、生理学、解剖実習のクラスを取り、在学した二年間で二、三百の外科手術を見た。
オークリーは自らが考案した脊椎のマッサージを弟ホートンに指示し、自身の背中の部分部分を手当てさせ試行錯誤を重ねた。オークリーは週5回の治療を3ヶ月受けて血色が改善し、ホートンが卒業するまでの2年間で夜遅くまで仕事ができるようになった。 奇跡の様に健康を取り戻したオークリーは将来にナプラパシーと呼ばれるテクニックを開発したのだ。
1904年、O.G.スミスは、パーマースクールの後輩であるパックスソンと共に、同じく後輩のラングワーシーがアイオワ州シーダーラピッズに1903年設立したアメリカンスクールオブカイロプラクティックアンドネイチャーキュアの教員になる。
脊柱の結合組織の損傷が神経インパルスを阻害すると信じたO.G.スミスが脊椎靭帯の固縮と神経圧迫の関係をアメリカンスクールで解剖学的調査を続けたのは明らかだ。 1905年11月16日の午後11時45分、脊椎の接続組織に「リガタイト」と呼ばれる固縮した靭帯をオークリーが顕微鏡下で初めて観察した。ナプラパシーの科学が確立された瞬間であった。
1900年代初頭、O.G.スミスはボヘミアを長旅していたとき、古来から病気の治療に用いられナプラヴィットと呼ばれる背骨マッサージ術があることを知り、それを農夫が行うのを観察した。 O.G.スミスは、ナプラヴィットが自分の開発してきたテクニックに似ているけれども異なると判断したが、自分のテクニックを名付ける参考にした。
次号に続く。
D.D.の最初の弟子(112号掲載)
アイオワ州ダべンポートの商業地区では、手技療法で得た臨床結果をもって磁気療法士から変身したカイロプラクティックの父が、ライアンビルの4階に40床の施設で患者のケアに従事し、繁盛していた。カナダ生まれのドクター・ダニエル・デイヴィッド・パーマー(1845―1913)は自称ドクターであった。
また彼は新しい治療法であるカイロプラクティックを教えていたが、「磁気マニピュレーター」がDC達の養成学校運営に要する公式な資格は限られていた。 D.D.は1870年代から1880年代にかけてアイオワ州とイリノイ州の田園地域で公立小中学校教師として生計を立てていて、1897年から翌98年にかけてシカゴ独立医科大学の教員として名を連ねていた
D.D.の最初の生徒はリロイ・ベイカー(LeRoy Baker)であったと言われている。 1897年にミズーリ州フルトンの列車事故で命を落としそうになってすぐ、D.D.は鉄道事故で負った傷害を治療するのに十分なカイロプラクティックをベイカーに教える。入学したベイカーにD.D.は触診を教え始めた。2週間から3ヶ月のコースであったが、そのコースをベイカーは終えることはなかったと言われ、卒業に関しては意見が分かれている。
1898年1月15日、最初のカイロプラクティックカレッジの始まりを記す日でもあった。同種療法医シーリー(William Ambrose Seeley MD)は、8週から10週間の教育に対して500ドルの現金をD.D.に支払い、最初に授業料を払ったカイロプラクティックの学生として歴史に名を残す。 1898年、最初の卒業生は2名、シーリー(William A. Seeley, MD,DC)とデイヴィス(Andrew P. Davis, MD,DO,Oph.D,DC)であった。 これらの初期のクラスでは、D.D.は4番から12番の胸椎をアジャストすることだけを教えた。
A.P.デイヴィスは、1835年3月10日に、ニューヨーク州アリゲイニー(Allegany)郡に生まれ、父は著名な医師で、学識深い学者であり当時の深淵な思想家として認知されていた。 デイヴィスは、1861年頃に医学の勉強を始め、最初に折衷主義的なシステムを徹底的に調査し、後に異種療法に注意を向けて、シカゴのラッシュ(Rush)医学校に入学し、1866年に卒業した。 約11年間たゆまず異種療法を臨床したデイヴィスは、同種療法の学習を開始し、オハイオ州シンシナティのパルティ(Pulte)同種療法医科大学を1877年に卒業し、同年に眼科学をも修めている。
1879年頃、デイヴィスはテキサス州コルシカナ(Corsicana)に移り、その地で同種療法のパイオニアに成り、その地域で同種療法を好意的に受け入れられることに成功したのだが、過労と健康失調で休業せざるを得なくなり、その間、デイヴィスはニューヨーク市に行き、ニューヨーク眼科大学で6カ月のコースを受けている。1880年の春、デイヴィスはテキサスに戻って、ダラスに落ち着いた。 テキサス州ダラス郡で同種療法医学における最先端の医師の一人であった。
自分の知識欲に相応する医学知識を獲得しなかったデイヴィスはもう一つ開口外科の特別コースにも参加した。 1898年にD.D.の下でパーマースクールを卒業し、テキサスに戻った。テキサス州で最初のカイロプラクティックドクターであろう。
A.P.デイヴィスは、西洋医学、即ち異種療法(アロパシー)の他に同種療法(ホミオパシー)でMDの学位を取得した後に、スティル(Still)からオステオパシーを勉学中にD.D.のカイロプラクティックに転向した。D.D.の下でカイロプラクティックを学ぶ前に、デイヴィスはMD、そして整骨医(オステオパス)であったと同様にナチュロパシーの医師であった。 D.D.に師事を受ける前にデイヴィスはオステオパシーの著作を2冊出している。デイヴィスとの広範囲な論争でD.D.は解剖学と生理学の専門的知識を示したが、デイヴィスは理論と適用で異論を唱えて、ナチュロパシーに傾倒していった。
カイロプラクティックのイデオロギー論争は続く。 次号をお楽しみに。
パーマー登場の社会背景(111号掲載)
1780年代から1850年代に渡って「正統医学」が「英雄医学」と呼ばれた頃、無謀な医師や危険な治療法よりも寧ろ患者のほうが英雄であった社会背景の中で、代替医療は花開いた。 この社会背景が有ったからこそ、カイロプラクティックの発祥が見られたのだが、同様にオステオパシーなど他の治療法が異なる理論体系の下で生まれた。「この社会背景」と言えば足りるのかもしれないが、100年も前のことなのだから、もう少し遡って歴史の流れと当時の社会的な気分や雰囲気とかに触れておこう。
蒸気機関による産業革命は、1770年に激化し、人々のライフスタイルを変え、結核と梅毒の蔓延とカイロプラクティックへの偏見を導いた。ヒポクラテスの時代から内科医も外科医も行なっていたマニピュレーションの有効性を説く意見も有ったが、「結核に冒された関節のマニピュレーションは悲惨な結果をもたらす。」と医師のポット卿(Sir Percival Pott)が報告したことも関係して、1795年から1895年、医者達は脊椎マニピュレーションを敬遠した。 そして米国では1858年の医療条例以後、ボーンセッターを全力排除した。
蒸気機関車や蒸気船が水陸交通を容易にしたが、ガソリンエンジン発明は新たな産業革命を起こしていた。 相対性理論の発表までにアインスタインは少し時間を要するが、1898年にフロイドが精神分析に於いて独創的で影響力の強い研究である夢の解釈を発表して、ツェッペリン飛行船の初飛行が20世紀の幕開けを告げた。 マルコーニが無線電信の実験に成功して、それが後にラディオやテレビジョンとなっていく。 1903年にライト兄弟が初の有人動力飛行に成功したと言われている。19世紀末から20世紀初頭は、米西戦争の記憶も新しく、機械の時代と産業革命の世界観は激動的であった。医療分野では、廃止後半世紀、医療条例の再提出が着々と進められ、米国医師会(AMA)が折衷主義や同種療法を教える医学校を排除したり、或いは吸収することに益々成功して、助産術の吸収か排除をも決めていた。
然し、アロパシー(異種療法)の権威に対する新たな挑戦は増えていた。 英国系ボーンセッターのA.T.スティルを始祖とするオステオパシーの専門家達は1893年以来、無資格医療の起訴に耐えてきたが、1901年までに14州ほどがDO(ドクターオブオステオパシー)の免許交付を許可していて(Gevitz, 1982, pp.40-2)、オステオパシーの教育は既にカリフォルニアにまでも広まっていた(Booth, 1924, p.89)。 売薬業者は1906年の食品薬物条例の拘束を未だ受けずに繁盛して、魔法の治療薬を売る旅回わり興行は非常に人気があった。 電気医療の治療家達も同様に活動の場を広げていた。特にAMAの裏庭であるシカゴで。
ニューヨーク市ではラスト(Dr. Benedict Lust)がアメリカンスクールオブナチュロパシーの運営を始めたばかりだった。 自然治癒の原因とナチュロパシーの方法に付いてラストの定期刊行誌、健康の使者で全米に報道されることになっていた。 またニューヨーク市はマクファッデン(Bernarr Macfadden)の生まれ故郷で、彼の刊行誌である肉体文化と数冊の書物を通じて、健康とボディービルディング運動は急速に成長していた(Ernst, 1991)。
一方、1886年に磁気治療家に成ったDDはアイオワ州バーリントンからダヴェンポートに移り、1895年9月18日、水曜日の午後4時にDDが最初のカイロプラクティックアジャストメントを行なって、ハーヴィー・リラードの難聴を治療したことでカイロプラクティックが始まって、1896年6月に、患者で友人でもあったウィード牧師(Rev.Samuel H.Weed)の示唆でDDの新しい治療法を「カイロプラクティック」と命名した。
1896年の夏にパーマースクールオブマグネティックキュアとして法人組織にする為に有限責任会社化された(Wiese,1986)学校は「ドクターパーマーのカイロプラクティックスクールアンドキュア」(Dr.Palmer’s Chiropractic School&Cure)として知られるようになった(Palmer,1901)。 そして、1902年にDDはダヴェンポートを去る。 この続きは次号のお楽しみに。
パーマーの闘い4 ~イデオロギー論争~(110号掲載)
D.D.パーマー(以下、D.D.)の人生に議論は尽きなかった様なのだが、初期にはオステオパシーの創始者A.T.スティルとの間で論争があった。 英国系ボーンセッターの流れを汲むスティルのオステオパシーは、初期理論に於いて血液の循環を重視していることから、理論体系に違いが有ることになる。 勿論、筆者はオステオパシーを熟知している訳ではないので、間違いが有れば御指摘を願う。
ウィラード・カーヴァーは、1886年にアイオワ州のメイズヴィルに生まれ、少年時代には配達の仕事をしていてパーマー家にしばしば行っており、B.J.を幼少期から知っていたと言われている。1902年にカーヴァーの親戚ハワード・ナッティング(L.Howard Nutting)がB.J.に学校を継続する為に融資している。 カーヴァーは後に弁護士に成って、1905年の2月、教育課程に暗示療法を含むことをD.D.に勧めた。 結果は想像に難くない。
1905年の3月初めにD.D.は、18歳のルクレティア・ルイス(Lucretia Lewis)と言う名の新患を受け入れた。 彼女はアイオワ州オスカルーサ出身で、当時その町で弁護士業を営んでいたウィラード・カーヴァーが、D.D.に診てもらうことを彼女に勧めたのだった。 カーヴァーは結核を患っていて、ルイス嬢も同病であった。 3月10日にパーマー治療所でルイス嬢は亡くなった。 彼女が、カイロプラクターのケアの下で死亡した最初の患者と言われている。
D.D.は死亡証明書の用紙を入手して、その最終欄に故人の担当医として自分の名前を添えた。 ルイス嬢の死亡証明書が市職員エドワード・コリンズ(Edward Collins)に提出された際、D.D.パーマーが死亡証明書を発行する権威を有するのか問われた。 コリンズは検死官事務所と連絡を取って、D.D.が死亡証明書の発行を認められた者として記録されているのか州保健局に質問状が送られ、D.D.が公的認可も無く振舞ったことを知らされた。その後、検死官の陪審員達が選ばれて、審問に出頭を命じる召喚状がD.D.に出された。 陪審に於いて、死亡患者の母親であるリディア・ルイス(Lydia Lewis)が最初に証言した。 母親は、娘の病状が前年に極めて悪化し、ウィラード・カーヴァーの助言で娘がD.D.の所に連れて来られたことを証言した。 そして母親は、オスカルーサの担当医が娘の治療を諦めて匙を投げて仕舞い、娘の症例は絶望的に見えたことを指摘した。 カーヴァーが絶望的な病状のルクレティア・ルイスを送り込んだのは、組織医療に見放された患者を救おうとD.D.の助けを求めたのはカーヴァー自身の人間性の豊かさからだ。
1905年の6月、カーヴァーはチャールズ・レイ・パーカー(Charles Ray Parker)の学校を卒業してカイロプラクターに成り、1906年8月にオクラホマ・シティーでデニー(Denny)と共に自分の学校を始めた。 そしてカーヴァーは、1906年にD.D.とB.J.の法的別居を手伝った。D.D.の弁護士であったウィラード-カーヴァー(Willard Carver,LLB,DC)はオクラホマに移住した後もD.D.とB.J.に議論を挑み続けた。 カーヴァー自身も基礎概念に改善を加え、カイロプラクティックの学究に励んだ。この続きは次号のお楽しみに。
パーマーの闘い3(109号掲載)
1896年1月に、牧師サミュエル・ウィード によって、ギリシャ語の「手(Chiro)」と「技術(Prakticos)」の2語から「手で治す」の意味で造語されたのがカイロプラクティックであった。同じ年にD.D.が発表したカイロプラクティックの叙述と基礎をなす哲学は、10年前に樹立されたアンドリュー・テイラー・スティルに依るオステオパシーの原理の模倣であった。相方が人体を機械的観点から捉え、そのパーツにマニピュレーションを施すことで無投薬の治療が可能と主張し、健康改善の為に脊椎の関節機能不全にマニピュレーションを用いることを相方が公言した。D.D.は、棘突起と横突起を機械的梃子として用いる短梃子のマニピュレーション・テクニックを最初に用いたことを特色として自らの業績を差別化し、カイロプラクティックの脊椎マニピュレーションの効果が、主に神経系の介在に依ることを記述した。
パーマー・スクールと診療所は、1897年に最初の生徒を受け入れ、後にパーマー・スクールと診療所はパーマー・スクール・オブ・カイロプラクティック (以下、PSC)と改称して臨床と教育の両方を継続した。しかし、当時は丁度、スティルがオステオパシーの学校を始めた頃でもあり、D.D.は自分の考えやテクニックが盗まれるのを恐れた。
1902年、D.D.は理由も告げず、ダベンポートを去り、オレゴン州とカリフォルニア州で講座を開いて西部地域へのカイロプラクティック教育浸透に努力していた。1903年にダべンポートへ戻ったD.D.はB.J.と対等株主の合名会社を作り、1906年まで続いた。1906年にアイオワ州スコット郡に於いて無免許医療の咎で裁判に掛けられたD.D.は、有罪判決の結果、投獄された。刑期を終えた後、D.D.はPSCの自分の持ち株をB.J.に売り渡して、西部へ移住し、オクラホマ、オレゴン、カリフォルニアで学校を開いた。
D.D.は、スティルとのイデオロギー論争ばかりか、息子B.J.とPSCの運営でことごとく反論しあい、他には顧問弁護士のカーヴァーとも論争し、論争はB.J.が引き継ぐのだが、それらの概要は追って解説する。ダベンポートを去ったD.D.は、1910年に自身の著作を1000頁の大作に纏め上げた。そして、1913年7月、アイオワ州ダベンポートのユニバーサル・カイロプラクティック・カレッジのホームカミング・パレードで、B.J.は自動車に乗ってパレードに参加していた。突然、小さな米国旗を振るD.D.が卒業生の行進を先導しようとして、パレード組織委員の在校生に止められて、口論となったところへ、B.J.の運転する車が到着し、父子の間で言葉が交わされた。
D.D.はB.J.が自動車で衝突してきたと主張し、後日、D.D.の友人と味方は目撃証言の宣誓書を提出した。B.J.は完全に否定し、D.D.達が集めた証言よりもっと多く反証の証言を提出した。B.J.側の目撃者は、B.J.が車でD.D.を撥ねたのではなく、D.D.がよろけたと証言した。真実は定かではないが、D.D.とB.J.双方の主張を基に推測すれば、ユニバーサル・カイロプラクティック・カレッジに招かれて、息子B.J.の成功に心躍らしたであろうD.D.は、パレードでB.J.の運転する車を先導しようとしたが、パレード組織委員に危険だと止められ口論になって、D.D.に気付くのが遅かったB.J.は自らの運転する車でD.D.を撥ねてしまったのか、或いは軽い接触でD.D.が転倒したのであろう。
事故から3カ月後、1913年10月20日にD.D.はロサンゼルスで死去したが、葬式参列に息子B.J.が来ないことを命じて逝った。D.D.の管財人、ジョイ・ロバンは、B.J.がD.D.を車で撥ねD.D.の死亡の原因となったと主張し、民事訴訟を起こしたが、数ヶ月も法廷で係争した後に任意で民事訴訟を取り下げた結果、審議は不利益無しで却下され、再審は無かった。アイオワ州スコット郡の地方検事もB.J.を殺人罪で起訴したが、ニ度の大陪審は証拠不足で却下した。この続きは次回のお楽しみに。
パーマーの闘い2(108号掲載)
D.D.は、奇行が見られるようになったとは言ったが、その根拠は後で述べるとして、B.J.の心の葛藤は慮るに余り有る。1895年9月18日、D.D.は難聴患者の背骨を手で再整列させて、患者が聴力を取り戻したことは、カイロプラクティックの偉大な発見であったが、自身の理論を共有することを躊躇ったD.D.は数年も黙り込んでいた。B.J.の記録によると、二人の間にはカイロプラクティックを家族の秘技にするのか世間に広めるのかで意見の相違が有ったようだ。しかし、命取りに近い事故の後、D.D.は出来るだけ速やかにテクニックを教授する決断をし、1903年のパーマー・スクール設立に至った。
パーマー・スクールの評判は良かったが、競合校の出現によりD.D.は多額の負債を抱えた一方で、D.D.の手法には議論と異論が足枷となった。D.D.は無資格医療行為の罪でアイオワ州から訴えられ、投獄された。その後、同じ罪状でD.D.はカリフォルニア州サンタバーバラで逮捕されたが、投獄は免れた。1906年、D.D.は再びアイオワ州から無資格医療行為で訴えられ、有罪判決で罰金或いは105日間の入牢の刑が言い渡された。D.D.がアイオワ州で投獄された間、B.J.が学校の経営を担い、妻のマベル(Mabel)が解剖学の教鞭と学校の運営に深く関わるようになった。監獄から釈放された後、D.D.が始めた学校は経営破綻し、D.D.はロスアンジェルスに移り住み、活動的な著者、講演者として人生最後の数年を過ごした。
B.J.にパーマー・スクールと関連事業を任せて、D.D.は西部へ旅立ったと言えば、恰も西部劇のハッピーエンドを想像するのだろうが、実際は如何であったか、D.D.とB.J.の父子関係には不明解な部分が残る。皮肉にも、D.D.は息子B.J.のユニヴァーサル・カイロプラクティック・カレッジ(Universal Chiropractic College)へ講演に招かれ、B.J.が運転する車に撥ねられ、その怪我が元で3カ月後に死亡したと言われている。
1913年7月、ホームカミングのパレードで、B.J.は自動車に乗ってパレードに参加していた。突然に、小さな米国旗を振るD.D.が卒業生の行進を先導しようとして、パレード組織委員の在校生に止められて、口論となったところへ、B.J.の運転する車が到着し、父子の間で言葉が交わされた。その夜、D.D.はダヴェンポートを去り、ニ度と戻ることはなかった。何が起こったかは誰の話を信じるかによるが、この続きは次号のお楽しみに。
パーマーの闘い(107号掲載)
D.D.パーマーに依るカイロプラクティックの創始には、19世紀の社会的変化、特に1830年代の労働者運動と女性運動が重要な影響を及ぼした。農夫のサミュエル・トムソン(Samuel Thomson)がFriendly Botanical Societiesを組織して当時の23.5%の人口を介入したトムソニアン運動を起こして、「誰もが自分自身の主治」を唱えたことで知られる。因みに、トムソニアン運動のトムソンは「トムソン・テーブル」と関係が無い。「トムソン・テーブル」はThompson, DCの考案であって、トンプソン(Thompson)をトムソンと呼ぶのはサイトウさんをサトウさんと呼ぶに等しい。
一方、フェミニスト作家のエーレンライヒは、原始的医療法に対する反医学運動の立場から「ポピュラーヘルス運動」を起こした。正式資格を持つ医師の治療は、荒々しく無謀で合理性を欠き、瀉血と外科手術が主で病名不明や未知の病に各種毒物や重金属を薬物と称して患者に使用した。自らを「正統医学」とは称したが、有益より有害のほうが多かったと言われている。当時の医学は「英雄医学」と呼ばれ、医療を行う医師も受ける患者も共に英雄でなければならなかった。1861年のリンカーン大統領就任に始まり1965年まで続いた南北戦争では「英雄医学」の悲劇が多く生まれたことは想像に難くない。一般の衛生レベルは低く、衛生環境の改善を説いたグレアム(Sylvester Graham)が今もクラッカー食品に名を残している。他には、水治療法の短期盛衰を見た。水治療法は、フィルターや過酸化水素水だの水素水だの炭酸水だのと、現代に至っても短期盛衰を繰り返すようだ。
当時の社会的変化によって新しい考え方や治療法に心を開いた態度が生まれ、1875年から1900年に渡ってアイオワ州、カンサス州、ミズーリ州を中心に異種療法(Allopathy)に批判的な反正統医学者達による新しい学校創設運動が盛んになった。 健康な人体に病気の兆候を起こす薬剤の使用を批判したドイツ人医師ハーネマンが唱えた同種療法(Homeopathy)は、合衆国全土に広まり、病院、学校が設立された。他には、ナプロパシーと前号で述べたA.T.Stillのオステオパシー等が挙げられる。
正統医学を称する異物療法の陣営に対する組織的な態度の堅持が困難に陥っていった。正規の医師達は長期的に医療の標準化に取り組み、同時に全ての「非科学的」治療者を「法に依って排除」する大規模な運動を開始した。異端医学で知られたシンシナティ医学校は、教職員学生達が学舎内に立て篭もり銃や大砲で抵抗したのだった。
ところで、当時の医師達は如何程に優秀であったのだろう?ハーバード大学声明は「非公式な認可が医師全体の水準を下げている」と報じた。1870年のSamuel Elliott学長書簡に医学部長は「医学校で筆記試験の実施は不可能」と返答した。筆記試験の実施は当然可能だったが、まともに文字を書けない医学生が殆どであったから筆記試験の採点が不可能であったのだ。米国第2のJohn Hopkins大学でも同様だった。1896年、Dr.Palmer’s School and Cureがアイオワ州ダヴェンポートに設立され、後のPalmer Institute and Chiropractic Infirmaryになる。息子のB.J.(Bartlet Joshua)が21歳の1902年迄にD.D.が認定を授与したのは僅か15人だった。
1906年にD.D.は無免許医療行為の罪で23日間投獄されている。自らの信念を貫く為に、不当な処置を甘んじて受け入れた。因みに、近年の日本で無資格者が瀉血とかの無免許医療行為で投獄されたのとは全く意味が違う。
パーマー親子は「創始者」と「発展者」として功績と名声をカイロプラクティックの歴史に残したが、彼等の親子関係や最期を知る者は日本では意外に少ないようだ。D.D.は1913年にカリフォルニア州ロスアンジェルスで最期を迎えた。B.J.は1961年にフロリダ州サラソタで此の世を去った。これだけでは十分に解らないかもしれないが、D.D.の投獄だけがパーマーの闘いではなかった。実は、D.D.には奇行が見られるようになったのだ。この続きは次号のお楽しみに。
カイロプラクティックの始まり(106号掲載)
ヒトは実に興味深い生命体であり、全員が基本的に同じ数の骨、同じ数の筋肉細胞、同じ数の神経細胞から出来上がっているが、それらの使い方は個体間で微妙に異なり、運動選手から音楽家まで様々な才能が開花する。カイロプラクティックに於いては神経系の優位性が力説されるのだが、特徴的に最も興味深い現象として人の中枢は、「見たいことを見たいように見る」、「聞きたいことを聞きたいように聞く」、「考えたいことを考えたいように考える」ようになっている。カイロプラクティック・手技療法を職としている読者は、カイロプラクティックに関して何か聞き違いや勘違い、考え違いは無いだろうか。万が一、洗脳された小世界に勝手な思い込みと共存しているのならば、一刻も早く目覚め、業界人の一人一人がカイロプラクティックを正確に理解し、実践して頂きたいと私は思っている。
まずは、歴史的なパースペクティヴからチェックを入れていこう。古代ギリシャの医学の父ヒポクラテス氏の「関節」に於いて、脊椎マニピュレーションを行った文書記録が有り、ローマ時代にアポロニウス氏がサブラクセーション部位へ立ったり、ローマ皇帝の医師として著名なギャレン氏が足踏みを用いたことを整形外科医のシリアック氏などが伝えている。
1746年に内科医のヒエロニミ氏がサブラクセーションを定義した。即ち、2500年程前から内科医も外科医もマニピュレーションを用いていた。残念ながら、黒死病(ペスト)の蔓延で多くの医学知識は消失したが、アラビアの一部地域からの逆輸入でなんとか復活を遂げた。マニピュレーションは、19世紀前半にその速効性を認める医師達が居たが、18世紀後半からの産業革命が招いた、結核と梅毒の蔓延により、衰退の一途を辿ったのだった。
一方で、マニピュレーションのテクニックは古くから世界中に存在し、前述の如く中世医学史にも見られるが、主にボーンセッターと称する人達に口伝で伝承されてきた。ボーンセッターはフィンランド、ロシア、ノルウェー、ウェールズで極最近まで存在していたし、アメリカ大陸のスペイン系社会でも同じだ。米国の開拓時代には、ボヘミア人の移住者が脊椎アジャストメントを施す写真が有り、自身が若い頃に敗血症から回復したと記録されている。英国系ボーンセッターの影響としては、「稲妻ボーンセッター」の異名で知られるATスティルが、1874年にミズーリ州カークスヴィルでオステオパシーを創設している。因みに、カイロプラクティックとの相違点は、初期理論に病の根源が神経ではなく血管に有るとしたことだった。
我等の英雄、DDパーマー氏は、1845年にカナダの森林地帯に誕生し、当時13歳相当の教育を11歳で終えるぐらいの勉強熱心な少年だった。DDパーマー氏は独学で大量の書物を読み、読んだ書籍を後年には私設移動図書館として所持した。DDパーマー氏はマニピュレーションのテクニックに関する文献も読んでいたと推測されている。
1886年にアイオワ州バーリントンで「磁気治療」を行っていたが、ダヴェンポートへ移ったDDパーマー氏は、ハーヴィー・リラード氏との出会いから、1895年9月18日のカイロプラクティック史上で最も歴史的な出来事を迎えた。そして落馬が原因で杖に頼る生活をしていたウィード嬢の足を治したことを契機に、父親のギリシャ語に堪能なウィード牧師が、カイロプラクティックを造語した。ここでDDパーマー氏が下肢のテクニックをも身に付けていたことへ注目するべきだ。
アジャストメントのテクニックを誰から学んだかを訊かれたDDパーマー氏は、ある人物の名を挙げたが、その人物は戸籍上では見付からなかった。DDパーマー氏は、独学で学んだマニピュレーションから厳選してアジャストメントのテクニックを構成し、理論と哲学を加えてカイロプラクティック科学を構築させていったのだった。話題はパーマーの闘いに続くが、それは次号のお楽しみに。