御意見番 物申す

中垣 光市DC



海外校の誘致と標準化コース

1997年のWFC東京大会からカイロ連と財団問題について述べる前に、DCLCでの巷話にも出なかったほどレーダー下で進められていた1995〜6年の重要な出来事、すなわち、JCAジャーナルが記した「RMIT大学日本校」開校(1995年)とカイロプラクティック標準化コース(Chiropractic Standatdisation Course, CSC)開講(1996年)に触れておこう。

米国マサチューセッツ州には有名なマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology, MIT)という学校がある。オーストラリア、ヴィクトリア州メルボルンにはロイアル・メルボルン・インスティテュート・オブ・テクノロジー(Royal Melbourne Institute of Technology, RMIT)と云う似た名前の学校があり、医学部と同列に鍼灸とカイロプラクティックの補完医療学部を設置し、RMIT Universityと称して総合大学を強調している。

「RMIT大学日本校」も「大学」を強調する気持ちはわかるとして、ロイアル(Royal)と称するので大英連邦の旧宗主国英国の王立大学かと思ったが、定かでなかった。

1998年10月2日のWFCシドニー教育会議役員会(後述の予定)に喚問を受けた帰路、同行したDCLC会長の幾世登DCの突然の発案で、蓮見久DCと川西陽三DCも一緒に急遽メルボルンのRMITに立ち寄る計画になり、幾世DCが「偉大な恩師」と仰ぐクレインハンス教授(Andries Kleynhans, DC)に会った。

その際に小生がRMITの名称についてたずねたら、英国王立の学校ではなく、Royal(ロイアル)と付けたのは「単に響きが良いから」という回答には呆れた。

エブロール(Phillip Ebrall)とモリノー(Tom Molyneux)が、RMIT大学でのカイロプラクティック教育の30年をカイロプラクティック・ジャーナル・オブ・オーストラリア(Chiropractic Journal of Australia, Vol.35(2), pp.16-20, 2005)で語っている。

同校でのカイロプラクティック教育の歴史はプログラム開始前の1975年からはじまり、1978年にかけて確立され、1979年の新規プログラムからの最初の卒業組輩出にはじまった合併統合期の20年間(1979〜1999年)に、プレストン研究所(Preston Institute)との関係を固めて1982年の合併でフィリップ研究所(Phillip Institute)になり、さらに1992年の合併でRMIT大学(RMIT University)になった。1999年12月にクレインハンス教授が辞任してプログラムから去り、合併統合期は終わった。

https://m.facebook.com/RmitLaw/photos/a.426458904131429/1927491970694774/に見るような「ICC program」と呼ばれる「国際商工会議所」(International Chamber of Commerce)による2年制「修士」(Master)課程にRMITのカイロプラクティック教育プログラムも含まれる。国際能力証明(International Certification of Competency)の言葉を同校の建築学部の処で以前に見たと記憶するが、今は削除されて見られない。

1984年にオストラレイシア(Australasia)カイロプラクティック教育審議会(ACCE)に無条件でメンバー資格を認められ、1986年、ACCEが米国カイロプラクティック教育審議会(CCE)と相互関係を達成し、RMITの教育プログラムは全面的に国際的同等性の地位を得るに至り、この20年間の成果にRMIT大学日本校の1995年設立が含まれる。

カイロプラクティック標準化コース(CSC)は、カイロプラクティック法制化が達成された国と行政管轄区域において、法制化前から存続する既得権者の教育履修内容を法制化に準じるように向上させる「標準化」を意図する法制化後の暫定的処置であり、筆者が知る限りオーストラリアと英国の司法圏が該当する。

法制化が進まぬ日本で財団運動に法制化の機運を感じたのか、CSC導入一番手のJCAは社会的な影響と責任も十二分に考慮したとは思う。RMIT-JCAのCSCに、CMCC-日米、Murdoch-JFCPそしてCleaveland-国際の各グループが続き、CSC参加者の教育の質向上につながったと、2005年7月の第8回WFCシドニー総会でJAC会長の中塚祐文DCが「2006年6月14日発表」の「Country Report」(国情報告)[https://jac-chiro.org/reportE_AUS.html]で述べた。じつは、マッコーリー(Macquarie)大学とDCLCのCSCも準備途上にあった。

そもそもCSCは法制化後の暫定教育であり、国内業界には荷馬車のうしろに馬をつなぐに等しく、組織支援者を増やす手立てにはなったわけだが、教育プログラム提供とプログラム認証は簡単ではないはずだ。(次号に続く)


カイロ連と財団問題

三○レポート(1991(平成3)年)がカイロプラクティック治療の危険性に警鐘を鳴らすマスコミ報道を引き起こし、その危機感から、1992(平成4)年11月25日、日本カイロプラクティック連絡協議会(カイロ連、CFJ)の設立総会が開かれ、元東大教授大島正光氏が会長に選出されたとJCAジャーナルは伝えている。然し、「カイロ連は6団体から始まり、参加団体の7番目が『DC会』(筆者注、DCLC)、8番目が『村上(同、村上整体)』で、最終的に11~12団体になった」と某業界関係者は言う。

財団最終申請時にカイロ連の加盟団体等(順不同)は、

•日本カイロプラクティック師会(ANCA、会長:甲木 昶)、
•新潟療術業共同組合(会長:片山 隆)、
•国際カイロプラクティックリサーチ協会(会長:佐古泰将)、
•日本カイロプラクティックアカデミー(NCA、会長:村松仲朗)、
•日本カイロプラクティックリサーチ協会(JCRA、会長:塩川満章DC)、
•自然カイロプラクティックサイエンス協会(会長:加瀬建造DC)、
•DC連絡協議会(DCLC、会長:鈴木喜博DC)、
•日本カイロプラクティック評議会(CCJ、議長遠藤光政DC、’97 WFC東京大会委員長)、
•全国カイロプラクティック師会(AJCA、会長:村上一男)、
•パシフィック・アジアカイロプラクティック協会(PAAC、会長:渡辺 勉)、

以上10団体名があげられていて、カイロ連加盟団体会員数を総勢約5,000人と村井正典氏は伝えている。

「他に複数のカイロ共同組合、カイロ団体が財団設立後に協力を約束していた」と村井氏が言うのは、「連絡協議会」の自乗のような名称の「全療協-カイロ連連絡協議会」の項に村井正典氏が記す全国療術師協会(全療協、理事長宇都宮光明)と日本カイロプラクティック協会(会長松本徳太郎DC)と推察する。双方とも1995年にはカイロ連に加入していたようだが、財団最終申請時までには脱退したわけだ。

「全療協は、法制化に向けた業界統一を行政から期待されて、すでに財団法人の資格が与えられていたのに、その期待を満たすことはできなかった」と前述の某業界人は述べたが、別の業界人は「できなかったのではなく、しなかったのだ」と評価する。

村井氏によると、カイロ連は、1995(平成7)年2月より、有効で質の高いケアを広く国民に提供するため一定基準のルールを設定し、全国で開催した「自主規制セミナー」に参加した1,000名以上に修了証を発行した。また1995(平成7)年11月に「カイロ100年祭記念国際教育セミナー」をカイロ連が開催し、約400名が参加した。1996(平成8)年4月18日、カイロ連はカイロプラクティック単独立法推進を決議した。

一方、カイロ連の初年度は、役員の割り振り、各委員会活性化、定例会合開催等で順調だったが、翌1993年のカイロ連理事会で、大島会長が財団設立のために公益法人検討委員会の設置を突然に言い出し、会長が規約にない私的諮問機関を公然と作り、会長指名の委員を発表したのは、議論を避ける目的だとJCAジャーナルは伝える。カイロ連の公益法人検討会初代委員長を櫻田善治氏が務めた。

そして1995年から大島会長が理事会を招集しなかったことに不信感を抱く団体が現れ、1996年に「全国療術会、日本カイロプラクティック協会、創術カイロプラクティック協会の3団体がカイロ連の運営に疑問を持って、次々に退会した。」とJCAジャーナルは記している。「全国療術会」は、筆者のネット検索で該当する組織が見つからず、全国療術師協会の誤植と思われる。創術カイロプラクティック協会は1996(平成8)年4月の退会を村井正典氏の記述に確認できる。

「そしてカイロ連の会議はやっと1997年になってWFC世界大会の東京開催に協力する為に再開された」とJCAジャーナルは伝える。

財団設立に深く関わったと言う某業界関係者が「最終的に11~12団体になった」と言ううえに、JCAジャーナルが伝えるとおり12団体から3団体が退会すると9団体が残るはずだが、村井正典氏は「財団最終申請時に」カイロ連の加盟団体等として10団体名を挙げ、単純な算数の計算が何となく合わない理由は、ほかにも加盟したり脱退したりのグループがいたからに相違ない。

村井正典氏の記述では、1999(平成11)年4月15日に日本カイロプラクティック総連盟がカイロ連を退会した。1997年6月のWFC東京大会を通して1999年4月までJCAがカイロ連に加盟していたと思われるが、筆者の入手し得た範囲のJCAジャーナル記事にJCAなり日本カイロプラクティック総連盟なり通称「総連」がカイロ連に加盟していた記述は、筆者の馬目では見つからない。

JCAジャーナルの伝える国内業界主要12団体が、カイロプラクティック治療の危険性に警鐘を鳴らすマスコミ報道に抱いた危機感を動機に、カイロ連設立から財団設立へ進むのを国内業界大同団結と見るのはそれぞれの好みにして、受療者への安全対策と単独立法推進の努力も見られたが、法制化より利権に魅せられ、本音と建前の間を彷徨う輩たちが入り混じる集いであったのかと筆者は振り返って疑問に感じる。(次号に続く)


カイロ師会と社団問題

過去の法制化の動きを詳しく知る業界人が減りつつあり、情報源は限られている。有難くJCAジャーナルを参考にさせていただくが、竹谷内一愿DCが「高価な印刷物」と評されたほどに紙面の制限があるのか、固有名詞の省略が多く難解で、情報の幅と深さに疑問を感じる。筆者が信頼する某業界人が言うとおり、社団や財団の法制化運動の中心に必ずしもJCAがいたわけではなく、情報の正確さに保証はない。ネット検索を通じて当時の情報を集めたので、筆者の理解に間違いがあれば、緘口令に抵触しない範囲で関係者からの御訂正を仰ぎたい。

敗戦後の法制化運動の原点として日本カイロプラクティック師会(カイロ師会)の設立から話すのが順当だ。カイロ師会が1982(昭和57)年設立で「日本カイロプラクティック師会」の商標出願・登録情報には出願人が甲木昶と「新生カイロプラクティック師会」のサイト(http://shinseichiro.web.fc2.com/)に記述されていたから伝えるが、今では削除されているし、カイロ師会の設立は1981(昭和56)年11月24日のようだ。

日本カイロプラクティック機構(JCO)の村井正典氏が、カイロ師会の甲木昶会長は昭和56年当時より私財を投じてカイロプラクティックの発展と法制化に取り組み、日本の多くの有識者と政治家を施術し、その人脈を活かして大きく貢献したことを、当時の理事長としてJCOのwebサイト(https://www.jco.or.jp/contents/osusume/web/recomend.htm)で伝えている。

1981(昭和56)年、名古屋大学医学部講堂で、世界的な生理学者、元名古屋大学名誉教授、元名古屋市立大学名誉教授、参議院議員の高木健太郎氏を会長に、「日本カイロプラクティック学会」が日本で初開催された。米国から本格的なリハビリテーション、理学療法、作業療法のシステムを日本へ導入した功績があり、カイロプラクティックにも理解がある、東京大学医学部整形外科教授の津山直一氏が特別講演を行い、多くの学術発表がされて大盛会だったと記述されているが、CFJ創刊号でもカイロタイムズの年表においても、第1回日本カイロプラクティック学会は1980年開催となっており、東大の津山先生の特別講演は第2回日本カイロプラクティック学会で行われたとなっている。JCOのwebサイトの情報は時系列にズレが有るのかも知れない。

厚生大臣(当時)園田 直氏は、日本カイロプラクティック学会の充実に感銘を受け、カイロプラクティック主要団体、学術経験者、有識者に呼びかけて「日本カイロプラクティック師会」を結成し、元外務大臣衆議院議員小坂善太郎氏を会長に擁立して、約1,000名の会員で1982(昭和57)年に発足したと村井正典氏は伝えている。しかし、カイロ師会の設立は1981年11月24日で、1982年は、後述のとおり「社団法人カイロプラクティック師会」の申請が議員連盟を通じて厚生省に提出された年のようだ。

1982(昭和57)年4月22日、「日本カイロプラクティック議員連盟」が、元外務大臣の小坂善太郎衆議院議員を会長に超党派衆参国会議員118人で結成された。議員連盟は政党・派閥・参院・衆院の枠に囚われず活動する議員集団であり、業界が資金拠出して発足したのでなく、議員が自から年会費を払い、議員により運営された。

当初、議員連盟の小坂善太郎会長は、「カイロプラクティックの単独立法」を議員立法で考えていたが、厚生省の協力は得られず、社団法人「日本カイロプラクティック師会」の設立申請を森下元春厚生大臣(当時)に提出したと村井正典氏は伝えている。

申請後約7年を過ぎても厚生省から無回答だったので、カイロ師会の甲木 昶会長(当時)と村井正典理事長(当時)が厚生大臣室へ出向いて小泉純一郎厚生大臣(当時)に事前相談の上うえ、「社団法人設立申請」に関して「不作為の違法確認」の訴訟を、小泉純一郎厚生大臣を被告として、1989(平成元)年6月21日、東京地方裁判所に訴えた。前代未聞といえるこの訴訟に関し、「厚生省を不作為で訴えるのでなく、厚生大臣を不作為で訴えるように」との天の声があったと前述の某業界人は言う。

裁判は一度開廷されたが、1989(平成元)年11月27日、「社団法人日本カイロプラクティック師会」の許可は、カイロプラクティック法制化後でなければ無理と厚生省から通達があり、財団で認可をさせて欲しいと提案されたので、財団法人「日本カイロプラクティック研究財団(仮称)」の設立を条件に訴訟を取り下げたと村井正典氏は伝えている。財団設立に関わった別の某業界関係者は、小泉純一郎厚生大臣(当時)の秘書官から公益法人化の提案があったと述べた。

そして、今や報道禁句扱いの三○レポート(1991(平成3)年発表)が、JCAジャーナルの伝えるとおり、カイロプラクティック治療の危険性に警鐘を鳴らすマスコミ報道を引き起こし、危機感を抱いた国内業界の主要12団体が1992(平成4)年、日本カイロプラクティック連絡協議会(カイロ連)を設立し、財団設立に向けて進む。この国内業界大同団結に協力を得て、CCJとDCLCは1995年、晴海埠頭でカイロプラクティック百年祭記念国際セミナーを成功に導き、WFC東京大会の試金石となった。

本稿の日付と記事内容の確認にカイロタイムズ編集部の御助力を頂戴したことを付記する。


女王陛下のスパイと元忠誠派と植民地の内乱

(前回に続き、小生の記憶を呼び起こしながら記す。事実誤認があればご一報ください)

1996年のWFC事務総長チャップマン-スミス氏の京都講演で通訳を手伝ったのが切っ掛けで、小生にCCJとDCLCの掛け持ちが始まった。

JCAジャーナルが「当面CCJにとって、1997年(東)京開催が決まったWFC学術大会(の)準備が最大の課題である。」と記した通りで、CCJ役員への就任を渋ったJCA側は、チェアマンの遠藤光政DCの力量を試す魂胆であったのだろうか。

DCLCの定例会合で会長の鈴木喜博DCが「1997年に(CCJが)開催予定のWFC東京大会を成功に導きたいが、如何すれば上手くいくだろうか?」と諮問した。出席の諸先輩達は沈黙を守っているので、今回も小生が発言した。「CCJがWFCの日本代表であっても、国内の他団体には基本的に無関係なことだから、世界大会への参加をお願いしたとて、一発勝負で東京大会を行うのは、およそ勝ち目のない賭けで、失敗の確率が高い。しかし、前段階に何か東京大会につなげるイベント、例えば世界レベルの講師を招待したセミナーとかを全国的規模で行えたら、本番の東京大会に集まってもらえるかの予測が立つと思う。」という内容を聞いた鈴木喜博DCの笑顔が強く印象に残っている。1995年のカイロプラクティック百年祭記念国際セミナー開催を踏み台に、1997年6月のWFC東京世界大会開催につながったようだ。

底上げ教育活動は国内業界の需要を満たして好評となり、会費だけだったDCLCの活動資金源に少なからず貢献したはずだ。講師陣の協力なしで成り立たないので、プロジェクトを提案した小生に、謝辞は不要だが、労いの言葉の一つすらもなく、何の手伝いもしなかった連中が当然のように出番を求めてきた。「他人の知力、体力、金と時間は使い放題」を常識とする日本人の非常識の一つだ。

金の匂いに気づいたのはDCLCの風見鶏の機会主義者達だけでなく、無頼漢の登場だ。JCAのブライアン・バジェルDCから接触があり、リサーチが専門で、国内業界にリサーチする人材が必要だと言うので、リサーチの手法に付いてDCLCセミナーで特別講習会を開催したと記憶している。それ以来、ブライアン・バジェルDCからは頻繁に会合の要請が小生に届き、奇妙な考えを持つ人物であることもわかった。

本人が話したのは、母国イギリスに居たら父親の煙突掃除の仕事を継ぐしか機会がなかったので、カナダに移住してカイロプラクターに成ろうと考えた。カナディアンメモリアルを卒業してもカナダで仕事がなく大変だった処を、日本人女性を妻帯していたこともあって、WFC事務総長チャップマンスミス氏の助力で、JCAの竹谷内一愿DCの世話になっていると話したのを記憶している。ブライアン・バジェルDCには、チャップマンスミス氏と竹谷内一愿DCの二人は大切な恩人ということだった。

そうこうする内、ブライアン・バジェルDCから竹谷内一愿DCの病気見舞いに誘われた。「とても立派で偉い人」と言うから、一緒に行くと、病室の竹谷内一愿DCは、満面の笑顔で彼の外交的な一面を見せた。

 竹谷内一愿DCの見舞いが済み、ブライアン・バジェルDCは遠藤光政DCに会いたいと言うので、遠藤光政DCの治療所で会う手筈となった。小生は他人の話に聞き耳を立てる性質でないが、遠藤光政DCが「外国人の貴方が日本の業界に口出しする必要はない!」と言ったのに対してブライアン・バジェルDCが「カイロプラクティックのことだからカイロプラクターとして意見は言える!」と予想もしなかった口論を始めた。この理不尽がCCJ攻撃の点火剤と筆者は考える。

数週後に竹谷内一愿DCから添え書きもなくJCAジャーナルが送られてきた。病気見舞いの礼なら葉書1枚で足りるのにと考えていた小生は、筆不精から礼状を失念して仕舞っていたら、電話が入り、「高価な印刷物を贈ったのに礼も言ってこない!」と苦言を頂戴した。「先日のお見舞いの御礼など不要ですのに、お気持ちで貴会の印刷物を送ってこられたと思うてました。お礼にお礼を言わなかったのは私の無礼かもしれませんが、お願いもしない印刷物をお送りになって、高価な印刷物を送ったのに礼の一つもないとは、筋違いでありませんか? 仕事中なので失礼します。」と電話を切った。此方が見舞いに行った気持ち、時間、体力などには理解がなくて、自分勝手に送った印刷物が高価なのに礼がないと御不満なのだから、奇妙に尊大な印象を受けた。

今にして思えば、ご闘病中でお気持ちが不安定であっただけなのかもしれないが、見舞いの際の彼の好印象との落差に、不思議な落胆を覚えたことを記憶している。(次号に続く)


門徒会館の変

国内業界の弱点を補強するDCLCセミナーは盛況となり、受講者の便宜を考えて、関西と関東の二部構成に拡大が決まり、DCLC会長の鈴木喜博DCは教育委員会に関東と関西の教育委員長設置を提案してきた。関東地区の教育委員である森田正良DCを関東教育委員長に推し、小生が教育委員を務めてきた関西地区は、先輩格を蔑ろにしたと苦情が出ぬようにと小生なりの配慮から、小林忠正DCを関西教育委員長に推した。小林忠正DCは当時、DCLCの組織的教育活動に関わっておられなかったので、天から降ってきた様な関西教育委員長職の打診が、よもや小生の推薦だとは思いもせず、私も敢えて口にしなかったから、今でもご存じないのであろうと推測している。

プログラム構成は同一でも、講師の配置と連絡、そして広告はこれまで通りに小生の役割だった。大阪でセミナーを行うには会場探しから始めねばならなかったので、これまた小生なりに気を遣い、会場を小林忠正DCの地元難波の近くで探し回って生涯教育センターに目をつけ、下調べと手配を終え、書類に判子を押すだけの挨拶に行くまで準備したところで小林忠正DCに連絡した。まずは気配りの効く後輩への労いの言葉を戴けるかと期待していたが、開口一番の「いや、挨拶には俺が行く!」には酷くがっかりしたことを覚えている。

DCLCセミナーは業界の需要を満たし、最盛期には東京、名古屋、大阪の三本立て運営に至り、名古屋地区の教育委員長を鈴木喜博DCが会長職と兼任した。同じ単元で日時と講師が異なるので受講者に便利だった。

何か事業が上手く活発になれば寄ってくるのがヒトの常なのか、それまではプログラムの構成から講師連絡、会場設定、宣伝広告の手配、受講資格の判定や、基礎解剖学の補講など準備全てが他人事であった機会主義者たちが動き始めたようだった。

講師の選出は機会均等に留意したが、受講者評価が高い講師陣を揃えなければセミナー活動が先細りになるのは自明だ。受講者アンケートで講義希望が低いDCは講師出番を減らさざるを得ない。実際にお二方のDCが、僅かな講師料を目当てに出番の増加をしつこく要求してきたと関西教育委員長の小林忠正DCから聞かされた。

懇意の某DCのモジュールにモニター参加したが、小生が小林忠正DCと共にモニターで来ていることを知らずか、質問に答える態度が横柄だった。また環椎横靭帯を「輪状靭帯」と呼んでいたのには、同行した小林忠正DCも気付いた。気管や橈骨の輪状靭帯に比べて環椎横靭帯の形状は強いて言えば半輪状だが、彼が師事した上部頸椎テクニックの師匠は、非一般的な解剖学用語を用いるのだろうか。

もう一人の某DCが出番を得たのは既にDCLCが傾き始めた頃だったが、東京在住の彼が関東での教育活動を支えず、関西教育委員長の小林忠正DCに講義コマ数の割り振りを強請っていたのは可笑しい。

DCLCセミナーの教本には「カイロプラクティック総覧第2版」が採用された。内容は良く、シリーズセミナーのモジュール構成に適していた。高額な翻訳本を多くの受講者たちが購入したので、セミナーの広告でお世話になったマニピュレーション誌の北島憲二編集長の御厚意に少しばかりお返しできたと思う。

カイロプラクティック総覧第2版を推したのはDCLC会長の鈴木喜博DCだった。監訳者の竹谷内宏明DCたちは印税をWFCに寄付していたことを某業界関係者から聞いて、WFCの謎が少し解明した気はする。JCAがWFCと共に、DCLCセミナーを「ド素人相手の週末テクニックセミナー」だとでっち上げの理由でCCJとDCLCを糾弾してきたのだから、DCLCはせっせと敵に塩を贈っていたことになるのは皮肉だ。基本的内容に大差なく廃版になった初版を、DCが五十人近くもいて翻訳して使わなかったことは、もっと皮肉に思えるが、DC仲間の適正評価でないかもしれない。 

教育活動で資金源が潤ったのかは別にして、鈴木喜博DCと遠藤光政DCは日本カイロプラクティック連絡協議会(1992年11月25日設立)の参加12団体と接触を始め、DCLCの内外、すなわち国内業界の他団体との組織力を客観視して差に気付いたのか、「DCには出来ない!」が鈴木喜博DCの口癖みたいになった。

二人の行動は必ずしも秘密裡でなかったのだろうが、DCLC役員内でよく理解されたとは考え難く、DCたちが京都の門徒会館に泊まりがけで議論をしたりした。その門徒会館でのこと、会議場でない所で鈴木喜博DCは顔面蒼白、血が頭に昇った幾世登DCは文字通り「口角泡を飛ばし」怒るが議論になっていない。鈴木喜博DCが場を去り、小生が「何をあんなに怒っていたのか?」と幾世登DCに尋ねると、「わからん。」と首を振った。「何を怒っているのかわからないほど怒ると心臓に悪いよ。」と忠告したが、余計なお世話だったようだ。この意味不明の諍いは、恐らく「DC会」からの何か不満が尾を曳いたと察するが、DCLCの結束に亀裂が入るキッカケだったかもしれない。(次回に続く。)


猿山の原理

(前回に続き)

当時のDCLCは「三○レポート」と「医事課長通達」(医事第五十八号)で話題は持ちきりであった。まして「医事課長通達」が、偶然といえばそれまでだが、CCJの「三○レポート反論」に対し、待ってましたと言わんばかりの絶妙なタイミングのカウンターパンチにも思えただろうから、先を憂いたDCLC役員たちの気持ちは理解できる。

 JCAジャーナルには、厚生省が三○レポートに基づいて、ほぼ同内容の行政通知を同年7月に全国の都道府県衛生部に送った結果、各界から大きな反響や批判を招き、その後数年にわたり、マスコミはカイロプラクティックの危険性を強調した報道を行なった。あはき業界は手ぬるいと強く批判。カイロプラクティック側はこの研究は人選・方法に問題があり、参考文献もない非科学的な研究だと指摘した旨が記されている。

このJCAジャーナルの記述では何がどう手ぬるいと、あはき業界がいうのか全く判らぬが、行政対応を強く批判するのは言論の自由としても、近年の新聞報道における統計では、カイロプラクティック関連の事故の6割が有資格者によるものであり、有資格者でカイロプラクティックに関わる6割が鍼灸師だと聞くので、あはき業界内でのカイロプラクティックとのクロスオーヴァーを禁じるのが手ぬるいと仰ってる意味なのかもしれない。

学位を誇示する権威主義に走るから研究も何もできない人材ばかりになるのだが、「非科学的な研究」の一つも満足に出せてないカイロプラクティック側の反論とは、CCJの三◯レポート反論を指すのだろう。立場を弁えず、天に向かって唾を吐くに等しい行為の後、CCJの転覆とDCLCの崩壊を招いた日本代表団体によってすら、問題処理が不十分だからこそ四半世紀を経ても「消費者庁レポート」が示す結果であるのに疑問の陰の余地も無い。

メディアの報道は、まさに筆者が帰国した当時、週刊誌が連載でカイロプラクティックを取り上げ、TV番組には、腰痛と聞いてプロレスの逆エビ固めの技をして見せる愚かな自称カイロプラクターが出演。そして巷では、「あなたも治療家に成れる」週末セミナーが流行り、釣られて参加する一般人を相手に、「大後頭孔と環椎の間は軟骨で埋まっているから」と独自の解剖学理論で「神経圧迫」を吹聴するような阿漕なセミナー屋たちで氾濫した。

「カイロプラクティックの危険性」に付いて、それを管理するべき立場にあるカイロプラクターの危険性が訴えられたのだから、個人も業界も真摯に対応するのが当然の道理だ。「DCLCは業界の組織として問題解決に何ができるか?」と当時会長の鈴木喜博DCから諮問が定例会合で出された。その問いに先輩格の諸先生が皆、沈黙してらしたので、小生が以下の内容の発言で応えた。

「カイロプラクティック教育校が文部省管轄にあり、所定の教育課程を成功裡に終えて全国検定試験合格、開業免許試験合格を果たさねばカイロプラクターとしての活動は違法であるように、教育と技能の基準が市民の安全を担保している米国ですら、事故の統計的確率は算出されている。未法制の日本では周知の通り、週末セミナーで自称カイロプラクターが濫造され、基礎知識と安全技能の低い業者が多過ぎ、症例管理で事故を起こす確率が高いのは想像に難くない。法治国家日本で放置されたままの謂わば業界の底辺層に、教育レべル向上を行えば、安全性向上に繋がるだろう。教育の底上げに手を差し伸べるのは、本格的教育を米国で受けてきたDCの我々が社会の恩恵に還元するべき責務と考える。」と小生の長広舌で教育事業が決定した。

 既に顔見知りになった小池福夫DCが会議後に近付いてきて「俺は教育に反対なんだ。」と言うから、「それなら会議が済んでから私に言いに来ず、議決前の会議の場で仰れば良かったですね。」と伝えると彼は去っていった。日本人の会議下手が世界の常識なのは別に、猿山のマウンティングみたいな行動は不愉快だと当時の小生は思ったが、小池福夫DCの真意が何処にあったのか、今となっては訊ねることはできない。

「DCLCセミナー」は、三○レポートに続く平成三年厚生省医事課課長通達への対応としてDCLCが業界団体の位置付けで始め、受講資格の確認を会長と教育委員を含めた役員会で行ない、基礎解剖学知識を満たす既存業者を対象に、モジュール構成のセミナーシリーズを提供し、受講者には毎回の講義の評価と再び聴講したい講師かを含め講師評価もアンケートを行った。

DCLCセミナーのプログラム構成から講師の予定確認と宣伝広報までを教育委員の小生が取り扱い、鈴木喜博DCへの好で原正幸DCが京都の門徒会館や産業会館に会場を手配してくれたと記憶している。セミナー会場が京都という土地柄か、関東やその他の地域から受講者とDCたちが集まるようになった。(次回に続く。)


賢者は歴史に学び、愚者は経験から学ぶ

(前回に続き)

“Those who have failed to learn from the history are bound to repeat.”と云われるが、歴史が不正確か不明瞭では、それにすら気付かねば、或いは「犯人探し本能」で悪役だけ勝手に決めたところで、特定の組織と個人に便利な虚構の塗り重ねだ。今後を担う若い業界人たちが同じ轍を踏むことが無いように、参考になれば幸いと考える。DCLCの内乱衰退とCCJの転覆崩壊までの証言を当コラム廃止までに終えたいが、全て成り行き次第だ。

DCLC設立4年後に筆者が帰国した頃、東海と関東に比べて関西勢は集まりもしてなかったらしく、関西地区に7~8人のDCたちが居たことも知らされず、三○レポートや医事課長通達も話題に上らず、自前で東京まで鈴木喜博DCを手伝いに行くように、小林忠正DCから筆者は促された。

DCLC会長の鈴木喜博DCは、当時五十人近い会員の大多数から信頼と信望を一身に集めていた。行動力と統率力と説得力に優れ、事務処理の能力をも発揮している印象だった。「大阪の小林忠正DCのご紹介で参りました。」と挨拶したことを覚えているが、鈴木喜博DCに最初から嫌われたとは思わないし、その後も格段に評価された記憶もない。きっと相応の原因と理由があるのだろう。

1989年10月のDCLC設立まで10年もの休眠状態だった「DC会」を「仲良く運営していた」小池福夫DCや幾世登DCや他のメンバーたちもDCLCに参加したようだが、カイロタイムズ41号に掲載された幾世登DCの寄稿文「DC連絡協議会の変遷」によると「早期にDCLCを退会していた竹谷内DCs」と記述されているのは竹谷内宏明DC、一愿DC、伸佳DCの三兄弟を指すと思われる。

当時WFC副会長ディエム(Diem)氏がJCAの「竹谷内DCs」とナショナルカレッジの同窓であったことも影響があったと勘繰りたくなるが、WFC役員会は会則の改定もせず、日本だけ会員資格を曖昧にして、全会員がDCであるDCLCと一部会員だけがDCのJCAを同等に扱いCCJを結成した。この前代未聞の決定操作は、DC学位への侮辱に他ならず、反対しなかったWFC役員たちとメンバーにも呆れるが、今から思えば、もしもWFC役員会に敢えてそうする理由があったのであれば納得がいく結果であったろう。

WFCの社会実験の如く、CCJは役員選出に関して何を「公平」とするのか不明なまま、「コチェアマン制度」と呼ばれる共同議長制度で発足したのだが、その後、この不具合を正したのは遠藤光政DCによる「DC個人会員制」であった。

個人会員制採択の経緯は詳らかでないが、「コチェアマン制度と両グループから役員を平等に出す妥協案」でCCJは成立したのだから、公平に役員会で話し合って決議したのであろう。1994年4月、CCJは、両グループがお互いの意見主張後、納得の上でWFCの「コチェアマン」制度の廃止を決定し、DCの個人会員制に移行した。結果、JCA所属のDCは5名程、残り約40数名は全員DCLCメンバーで、遠藤光政DCがチェアマンに就任することになった。

個人会員制導入とコチェアマン制度廃止に関してDCLC か CCJ に内容証明が送られたとは聞かないので、建前として不満は無かったようだが、何やら隠された怨念の残り火が尾を引いた印象は否めない。役員の選出を個人会員の所属団体で阻む会則は無いにも関わらず、何故かJCA側からの役員立候補は消極的であったらしい。

事態を心配したDCLC会長の鈴木喜博DCが、それで大丈夫かとCCJチェアマンの遠藤光政DCに確認する場に小生が居合わせたのは事実だが、会話の全容は、御両人の承諾無しで記載は迷惑だろうから、読者の想像に任せるとして、心理的窮地に置かれた様子の遠藤光政DCは「もうコチェアマン制なんかでなくて良いんだ。」と穏やかに自身と周りに居る者を納得させる響きだった。DCLC設立の盟友でパーマーの同窓生を憂いる鈴木喜博DCの気遣いは立派だし、流石にお二人の心労は理解出来た。

一方で、幾世登DCがカイロタイムズ41号の「DC連絡協議会の変遷」で記述した通り、「DC会」の纏まりは既になくなっていたから、CCJの発足で「日本のDCが挙って日本の無秩序なカイロ業界の統一、発展に寄与すべき新時代の幕開けを期待するのに十分なインパクト」は何かしらあったと小生も感じる。

CCJはWFCや国外関係の業務を担当し、DCLCが国内業務を受け持つことになった。その後を振り返って見ると、CCJはJCAと波風立てることなく穏やかな日々が続くように思えた。否、バジェル氏の登場までは、JCAが波風立てることなくCCJと穏やかな日々が続くように思えたと言うのが正しい表現だろう。とばっちりはDCLCにも及ぶ。(次回に続く。)


菩薩さんとお不動さんと漬け物の重石

(前回に続き)

太平洋戦争後は、1970年代以降になって米国のカイロプラクティック大学を卒業したDCたちが続々帰国した。ナショナル卒の竹谷内一愿DCを筆頭に、LACC(現在のSCUHS)卒の須藤清次DCにパーマー卒の塩川満章DCが続いたと言われている。

筆者はLACC在校時、カウンセラーオフィスから言われて、夏季休暇中に須藤清次DCが学生を連れて団体旅行でお越しになった解剖実習のお手伝いをさせて頂いた。一週経つと須藤清次DCが解剖実習の手伝いの礼にと百ドルの小切手を手渡そうとなさったので、私は受け取りを辞退したら、「百ドルでは不足と言うのか!」と不機嫌な顔をされた。「私は学生の身分で、金目的にお手伝いしているわけではないです。皆さんのお手伝いをして解剖学の復習をさせて頂いています。もし宜しければ実習期間中、皆さんと同じお弁当を私の分も出して頂けたら、一緒に昼食を頂戴して、日本の状況など聞かせて頂けると嬉しいです。」と心の内を素直に話した。

どうも弁当屋の都合で、手配が簡単ではなかったらしいが、昼食時に須藤清次DCから施術の方針や御自身のLACC在学時の生活などを聞かせて頂いた。随分義理堅い御方で、辞退させて頂いた謝礼の代わりに受け取って欲しいとのご要望で菩薩の陶磁を頂戴した。

さて、カイロタイムズ誌40号に掲載された当時DCLC会長代行の幾世登DCの寄稿文を抜粋させて頂くと、1970年代は帰国DCたちが卒業校に関係無く独特の連帯感で強く結び付いていたそうだ。懇親会で盛り上がる状態が十数年も続いて、人数が三十人程になると、「DC会」を名称とし、小池福夫DCが会長として纏め役を引き受け、「仲良しクラブ的な団体」としての体裁を保ったと記されている。筆者は幾世登DCから「DCLCの前身となった『DC会』の運営を(彼自身が)小池福夫DCと仲良くやっていた。」と聞かせて頂いたこともある。

幾世登DCの表現に依ると、外部からは、「社会的(に)未成熟な単なる親睦団体で、組織として行動できない身勝手なDCの集まりという非難も浴びた」そうだが、やはり「DCに対する期待も大きく」、「DCが組織として纏まれば…公的認知も得られる」との意見もあって、「内外に対応できるDCの組織団体設立を要請する声が高まる」時代になっていた。

更に続けて、「既に東海と関東では地域的な組織作りを始めていた鈴木喜博DCと遠藤光政DCの呼び掛けで、1989年10月、規約が承認され…正式にDCLCとして会員数三十九名で発足…」、ほとんどの国内日本人DCが参加したと記述している幾世登DCの表現では、「DC会」が社会的に成長してDCLCに育ったかに聞こえるのだが、実際には少し異なるのかもしれない。

「斎藤信次残日録 其の五〇」

https://www.facebook.com/1830581825/posts/10215520194157899/

上記URLの内容から抜粋させて頂くと、当時、東海地区のDC5人が東海カイロ医協を結成して、活動の一環として自らが発起人となり、約10年ぶりのDC会が催されて、1988年2月、東京駅八重洲北口にあったホテルに30人からのDCが一堂に会した。東海カイロ医協の幹事役であった鈴木喜博DCの尽力大きく、今と違い50人足らずの所在の判るDCに案内を出し、7割近い参加者を集めたのは画期的であり、それだけDC間の関心が高かったのだろう。この後、鈴木喜博DCはDCLC設立の立役者として初代会長になった。

太平洋戦争後の日本でDCの組織を作る貴重な機会を与えられた「DC会」だったのに、カイロプラクティックの公的認知を外部から言われねばならないほど「社会的に未成熟」であったばかりか、10年も休眠状態が続いた私的な「仲良しクラブ」だったのが恐らく公平な評価であろうから、DCLCの発足は「DC会」にも国内業界にも幸いなことだったと筆者は考える。これでやっと、筆者がDCLCへの参加協力を要請しても、「DC会」の会長だった小池福夫DCが「まだ吾輩の出番でない」とおっしゃったパズルは解けた気がする。

ヒトは感性も適性も能力も千差万別なので、適材適所で能力を発揮できれば個人と社会に理想的だが、自己の能力の主観的評価と客観的評価に落差が甚大な場合、それは本人にも社会にも不運であり、そこを左右するのがヒトの本質かもしれない。ヒトの本質は、余程のことでも起きない限り変わらないようだが、およそ普通なら、経験に学んで灰白質にシナプスを増築できれば素直に思考も行動も改善するのだろう。「仲良しクラブ」のメンタリティが如何なるかは、次第にもっと明らかになってくる。(次回に続く。)


三浦レポートアレルギーと報道禁止用語

(前回に続き)

ふと、小学五年生のときを思い出した。もう時効で許されるだろうから話すと、同級生のO君は、芳しくない点数の理科の試験用紙を、帰宅の途で鉄工所のゴミ箱に捨てた。親から叱られる難を避けようと考えたのは流石だが、鉄工所のオヤジさんがゴミ箱の中に捨てられたO君の試験用紙をわざわざ学校まで届けてくれたのだ。O君がクラス全員の前で担任から叱られ、恐らく家でも叱られたのは可哀想だった。

さて、三浦レポート(平成3(1991)年4月)答申の翌5月、CCJは初の月例役員会において「三浦レポート反論」を初仕事に取り上げ、その英訳をWFCに送付した。「WFCのチャプマンスミス事務総長が遺憾の意を表した」書簡を厚生省に送り、CCJは「三浦レポート反論」を「WFCのディエム会長とチャプマンスミス事務総長が来日し、厚生省を表敬訪問したとき厚生省幹部に手渡した。」とJCAジャーナルが伝えた。

「三浦レポート反論」のために、「銀の弾丸」が一つと言わず二つも送られてきた訳だから、WFC事務総長チャプマンスミス氏の熱血弁護士ぶりに男気を感じさせられるが、結果は?

WFCのチャプマンスミス事務総長書簡に対する厚生省の返書は?厚生省幹部にWFC幹部と一緒に「手渡した」と言われる「三浦レポート反論」の受理書は?全く不明だ。

行政の立場を想像すれば、血税を費やした厚生省の研究結果に難癖を付けるに飽き足らず、WFCに告げ口までした振る舞いをCCJの「初仕事」と感じたのではないか。法制化の実務は行政がするのだから、行政に敵対する印象のCCJが法制化に非協力的に映る。古参DCの一人も諫めた者がいなかった様子で、それも当然かもしれない。

カイロタイムズ40号(2004年9月1日発行)によると、DCLC会長代行(当時)の幾世登DCの寄稿文で、竹谷内一愿DCが太平洋戦争後帰国の日本人DCの筆頭であり、最古参と格付けされている。その最古参たちが行政との関係をどう考えていたのか知る術は最早ない。

三浦レポートに関しては、それなりにカイロプラクティック法制化の必要性と根拠を行政が示したのだと筆者は考える。過剰アレルギー反応の必要もない。しかし、他人の研究がカイロプラクティックに否定的と考えるのなら、それに反論を述べているよりも、先進国の肯定的な研究結果を翻訳して紹介するなり、自分たち自身もそのような研究を行い発表すれば良いだけなのだ。そのための人材育成と環境整備が必要なのは言うまでもない。

そう言えば、当時、折りある毎にリサーチだ、研究だ、と騒ぐ外人DCがいたようだが、今となっては、彼の国内業界への貢献も成果も、実を結ぶことがなかったような印象だけ残るのは誠に残念だ。

いずれにせよ、血税を費やして行なわれた医師たちの研究結果をタブーでキャンセルしても、三浦レポートに基づき、厚生省から都道府県の保健課宛てに出された平成3年6月28日付けの「医事課長通達」(医事第五十八号)は未だに有効であり、真摯に受け止められるべきだ。

故に、カイロプラクティック法制化の動きに非協力的な組織や個人たちにとっては、思考と行動をリセットするべき新たな潮時かもしれない。

制度化推進会議は、すでに行政の指導に基づき「(準備)」の言葉を外し、当初から数えて5年目の活動継続に入ろうとしている。毎回の会議に厚労省から担当官に御出席頂いている理由を、わざわざ筆者如きが細やかに説明する必要もなかろう。法制化に進むことを前提に、制度化の作業では諸々の基準の取り決めも必要となるから、できるだけ多くの業界団体が参加して、民主的に協同歩調をとることが望まれている。参加をいつまでも躊躇して無言と無視を続けていても将来的に得は少なかろう。多くの業界人が意見を出せるように、との意向を汲んで受け入れ窓口を拡げるために、徒手療法師会が設立されて、制度化推進会議と同様に、個人加入もオブザーバー参加も可能だ。

壬寅の年を迎えて、各個人にも業界にも目標の達成には六十年ぶりの好運機といわれる。自分勝手なわがまま虎を演じて受療者と自分と家族に禍を招かず、「医事課長通達」を遵守して、更に「まず業界が纏まれと厚労省がずっと言ってきている。」のだから、その指導に従うのが理性的な業界人ならば本筋と筆者は考える。


三浦レポート反論

(前回に続き)

CCJは、最初から直ぐに惨めな劇的崩壊に突入したのではなく、1991年4月WFC加盟、5月より月例役員会を開き「三浦レポート反論がCCJの初仕事」とJCAジャーナルが報じた通りで、蜜月の如き期間はあったようだ。

DCLCとJCAから「平等に」選ばれたCCJ役員たちも両コチェアマンも「三浦レポート反論」に崇高な使命を感じたのであろう。WFCの日本代表団体としての面目を行動に移した彼等の積極性は評価されるべきだが、あれこれ初仕事を選べた中でよりにもよって「三浦レポート反論」とは、近視眼的な社会的視野狭窄に思えるがゆえに、「幾つかの誤ちらしきがあったと考える」内の一つなのだ。

CCJが発行したと言われる「三浦レポート反論」の内容を詳しく知りたいのだが、発行は筆者の帰国前のことであり、コピーが筆者の手元に届いたことなどなく、残念ながら、在庫なども含めて業務の引継ぎがあったのかも定かでないままCCJは休眠状態で忘れられている。

DC数人にそれとなく尋ねたら、三浦レポート作成に国内業界人からヒアリングが行われたことと、実技の有効性の調査が行われたらしいことで大まかに一致するが、他人事のように場所や関係者名の詳細が不明なので信憑性に欠ける。小林忠正DCが筆者に医業類似行為に関する資料を郵送してくださったご厚意に感謝する。医業類似行為から調査するべきとの示唆ではないかと推察するものの、課題に取り組むだけの時間と体力の余裕がないことが残念だ。仕方なく、信頼できる業界関係者に三浦レポートの背景を尋ねてみた。

匿名ご希望の某氏によると、「東大医学部で医局員たちが参加して実技の有効性調査が行われたとき、ある著名なDCが実演ショーまがいの振る舞いで、医局員たちの心象を悪くした。そして、そのDCの無責任なセミナー活動の結果として、施術事故被害者の急増に繋がったと行政側は判断していた。」そうだが、この情報について、他の人から、同じく東大医学部において、三浦レポートとは異なる時期と内容の話を聞いており、関係人物の情報が混同しているのではないかとの指摘をいただいた。二者の話は合致しない印象だが、筆者は何が真実であったかを知る術がないため、あくまでも伝聞として記載する。事実をご存じの方には是非ともご教授願う。

一方、某業界関係者の話では、「ヒアリングに関しては当時、日本カイロプラクティック師会(カイロ師会)のA氏が当事者中の当事者で、事情はすべて彼に聞くのが一番間違いのないところです。他の人の話は聞いても仕方ないでしょう。私が当時聞いた範囲では、ヒアリングを受けたのは全国療術師協会(全療協)のB氏、カイロ師会のC氏、日本カイロプラクティック総連盟(JCA)のD氏らだったと聞いています。」と語った。こちらは実名で話を伺っているものの、ご迷惑を掛けないよう匿名としておく。

この業界に限らぬが、同じ出来事でも、話す人によって全く異なる話になっていることが多くて、事実検証が為されるまで、どの情報を信じるかは聞き手の判断になるのだが、これらの匿名情報は、先に尋ねた古参DCたちが話した内容より詳細で、圧倒的な信憑性が感じられ、全体像の個別の部分の真実が語られているように思う。

WFC日本代表団体JACのサイトを参照させて頂くと、厚生省が科学技術研究費から研究資金を使って東京医科大学に委託した調査研究に、三浦幸雄教授(東京医科大学整形外科)が、整形外科医たち7名で研究班を結成して、1989年頃から約1年半を掛け、1991年3月に答申された調査研究が、主任研究者の名から「三浦レポート」と一般に称される。正式には「厚生省平成2年度厚生科学研究『脊椎原性疾患の施術に関する医学的研究』報告書」と呼ばれる。

研究課題が「脊椎原性疾患の施術に関する医学的研究」、研究目的が「カイロプラクティック等の脊椎整体施術の理論の医学的妥当性及び施術における検査手法の医学的有効性、調整術の有効性、危険性等を明らかにする」ことと記されていて、研究に参加した整形外科医7名の中に黒川高秀教授(東京大学医学部)の名が見られ、実技の実証試験が東大医学部で行われたのだとしても、想像に難くない。研究目的には「被害例の検討を行い、カイロプラクティックについての医学的評価と考察を行うこと」とも述べられている通り、明らかな施術被害例の紹介と分析が付随する。

三浦レポートとは、国民の安全と健康を危惧した厚生省の「脊椎原性疾患の施術に関する医学的研究」の答申結果であるが、「カイロプラクティック側はこの研究は人選・方法に問題があり、参考文献もない非科学的な『研究』であることを指摘した」とJCAジャーナルが述べたのがCCJの「三浦レポート反論」の概要と推察する。

血税を使った研究に参加した錚々たる面々の整形外科医たちへの反論は、憲法が保障する言論の自由だが、カイロプラクティックの社会的立場を弁えない行動だ。まして、厚生省委託研究に関わる「人選」を仕切ったのが、同じ業界人でも自分たちでもなかったのは、業界指導者と認識されてなかった証で、そこにCCJの初仕事を探すべきだったはずだ。(次号に続く)


コ・チェアマン制度

(前回に続き)

1991年の日本カイロプラクティック評議会(CCJ)結成に向けて、WFC幹部が集めたとJCAジャーナルが報じた「日本側代表11名」とは、どの組織の誰だったのだろうか。もしも日本国内の11団体から代表11名をトロントに招集して「統一団体の必要性」をWFCが訴えたのだったら評価に値するが、11名も出席させた実態がわずか2団体を相手に「日本の統一団体の必要性」を説いたのなら、日本の業界を理解できていないWFC幹部の茶番劇と言わざるを得ない。

「コ・チェアマン制度と両グループから役員を平等に出す」妥協案に合意したDCLCとJCAの二団体でCCJが設立され、日本代表団体に導入された「コ・チェアマン制度」とは、DCLCとJCAの各グループ代表が二人でCCJの議長職務を行うという、「日本だけのユニークな制度」をWFCが導入したわけだ。

その妥協案で両グループから役員を「平等に選ぶ」と定めたが、何をもって誰にとって「平等」だったのだろう。DCLCはDC会員のみで構成されていたが、「総連盟」を名乗るJCAは構成会員の資格が幅広くて、両団体から選ばれた役員がDCのみだったにせよ、それがWFCの言う「平等」なのだろうか。会員構成の違いに目を瞑って「平等」を唱えても、言葉が形ばかりで意味を為していない。

「コ・チェアマン制度」が「日本だけのユニークな制度」と言えば聞こえは良いが、WFCにおいて他の国々はどうかを見た途端に、日本の業界を使った社会実験みたいに思えてしまうのだ。

WFC事務総長チャップマン・スミス氏刊行のカイロプラクティック・レポート第4巻第1号(1989年11月発行)はWFCの構成に関して、「議決権を持つメンバーはカイロプラクターの全国的団体とし、一般的に一国一団体であるが、米国(ACAとICA)とオーストラリア(ACAとUCA)の場合は歴史的な理由からそれぞれ2団体とする」と述べ、「WFC会費は各団体所属の議決権を持つDC会員の人数に基づく」旨が記されている。

オーストラリアと米国での「歴史的な理由」が何なのかは明確に記されてないが、長く存在しても組織合併の可能性が薄いという意味なら、「歴史的な理由」は日本にもあったではないか。もしも私の記憶違いなら、内容証明までは不要でご指摘頂ければ幸いだが、元々は「東京カイロ」に始まり、対立と合併を繰り返しJCAになった組織的変遷は充分に「歴史的」と思えるし、歴史的存在がWFC所属の物差しなら、JCAに吸収されず、しかも同様にDCが所属していた全療協にも日本代表の正当性は帰属するべきでなかったのだろうか。

つまり、WFCの構成は議決権を持つメンバーが「カイロプラクターの全国的団体」と記されているが、WFCの会費は所属するDC会員の人数に基づくと記されているから、DC資格者で会員構成する組織をWFC会籍の対象としている。

それなら、WFCの会員とは、五十人足らずでも全員DCの組織を意味するのか、あるいは、DCがわずか数人でも非DCが大多数のグループをも意味するのか、はたまた世界的な認知の一定基準も満たさぬ者たちが徒党を組んでDCを勝手に名乗れば「カイロプラクターの全国的団体」としてWFCに会籍を持てるのだろうか。答えは、会費の項で明らかな通り、DC会員で構成される組織を意味すると理解するのが妥当なのは、WFCの幹部役員にでも自明だったはずだ。

WFCの各国メンバー組織はDCかDC同等で構成されている。重ねて記すが、日本の前代表CCJを構成した組織のDCLCは、会員が全員DCであったが、片やJCAに関しては、DCから非DCまで幅広い資格の会員で構成されていた。未法制を続ける日本風のカイロプラクターの全国的組織などWFCの会員対象でなかろうに、まさにJCAの混合グループも同胞として、DCLCのDCたちがいかに紳士的に接してきたかを示している。

 その様な混合グループを相手に、日本の業界を全く理解していないWFCの幹部たちは、コ・チェアマン制度という奇妙な制度の導入に、異常な執着があったように見えるのは、同窓の好しみからJCAが日本代表になれるように差し金を入れた者がいたと勘繰りたくなるのは小生だけであろうか。

コ・チェアマン制度といった自発的分割統治は、歴史的に散見される被支配者同士の対立を煽り立て、支配者への批判をかわす統治手法のようなものであり、体制や方針に対する批判や議論は排除したWFCの介入により、CCJは空中分解され、当時の法制化運動まで頓挫させられる結果に至った。(次号に続く。)


黒船の妄想(124号掲載)

(前回に続き)

七つの海を跨ぐ帝国を築くような民族の女王忠誠派や、元忠誠派に頼ると無償ですまないのは、歴史と経済を少し理解すれば明白だ。この点に関し、1977年に来日の際、ジョー・ジャンシー(J. Janse)DCが植民地化されぬように、国内カイロプラクティック業界の団体代表たちに警句を提したと言われている。

 しかし、長らく団体の離合集散ばかり繰り返して、法制化が遅々として進まぬ状況を幕末になぞらえた平成初期の国内業界には、法制化を終えた先進国の外圧に頼った法制化をもくろむ時代錯誤の楽観的他力本願の甘い雰囲気があったようだ。

海外ではギャリー・アウアーバック(G. Auerbach)DCの提唱で、カイロプラクティック世界連合(WFC)が1988年に結成され、1991年の第一回WFCトロント大会にDCLCの遠藤光政DCが参加したら、日本カイロプラクティック総連盟(JCA)から竹谷内一愿DCも参加していたと言われている。

JCAジャーナルは「1991年にWFC加盟のため、DCLCとJACが協力してCCJを設立」と記しているが、他の段落では「二つのDCのグループ(JCAとJUCA)が対立して解決のメドが立たず、最終的にトロント会議でWFC幹部による調停に委ねることになった。」と記述している。

三団体の名称が出て「二つのDCのグループ」とはつじつまが合わぬ表現に見える。JUCAの名称は、遠藤光政DCと鈴木喜博DCの会話の中に出てきたのを、たまたまその場に居合わせて確認した。JUCAでWFCに加盟することでDCLCとの役割分担を意図したらしいので、JUCAをDCLCと同義に考えて問題ないが、これにて一件落着とは参らぬようだ。

1991年のCCJ結成に登場したとされているJACが現在の日本カイロプラクターズ協会であるとするのは物理的に不可能だ。大島財団(後述)設立に関して「1998年2月の(CCJ)総会で激論の末、CCJは賛成を決議。これをきっかけに、不満を抱く何人かのDCが集まり、JAC結成へ」とJCAジャーナルには記されている。故に、1998年結成のJACがCCJ設立の1991年に既に存在できた訳がない。

「カイロプラクティックを守るために」という理由で、一般固有名詞のカイロプラクティックを商標登録した人たちが関わっているのだから、JACが既に存在していたとしても不思議はないが、筆者がJCAジャーナルをみた範囲でJACは1998年結成の以前に存在しないのだから、CCJ設立に関わった「JAC」とは、紛れもなく竹谷内一愿DCが代表したと伝えられるJCAに他ならず、従って、タイムトラベルやテレポーテーションの例でもなく、JCAを「JAC」とした単なる誤植だろうが、複数回の誤植には何か意図的な事実歪曲の可能性が疑われぬこともない。

また表現の緩やかさというか曖昧さが、それだけに留まらないのが残念だ。一般的日本語表現の例として子供のグループと言えば、そのグループは大人の引率者が含まれている場合もあれば、子供だけを意味する場合もある。しかし、専門家のグループと言えば、専門家だけのグループを意味し、専門課程を履修した者と未修の者を混合しないのが常識的だ。ではJCAジャーナルが言う「DCのグループ」とは誰が何を基準に何を意味したのだろうか。DCだけの組織を意味するのか、一歩と言わず十歩譲ってDCが一人でも関わる団体の意味なのだろうか。

筆者はJCAの研究を専らにしている訳ではないので、詳しい数字は不明だが当時は5名程のDCたちが所属していたと記憶する。逆鱗を逆撫でするような表現を意図しないが、JCAは5名程のDCと全国的な人数の非DCとの混成グループだった。片やDCLCは50名近いDC会員の全国的組織だった。

「WFC幹部は総会に先立ち、日本側代表11名を一堂に集め、日本の統一団体の必要性を強く訴え、コ・チェアマン制度と両グループから役員を平等に出す妥協案を提案」。同意した両グループで「日本カイロプラクティック評議会(CCJ)を設立し、日本での国際的な窓口としての機能を果たすことで意見の一致を見た」のでWFC加盟問題はトロント会議期間中に一挙に解決へと向かったとJCAジャーナルは報じ、WFC役員会に華を持たせた。

しかし、日本カイロプラクティック評議会(CCJ)設立に向けて、WFCが日本国内「統一団体の必要性」を訴え、WFC幹部がトロントに招集したとJCAジャーナルに記されている「日本側代表11名」が、どの組織の誰なのかよくわからない。

次号に続く。 


DCLCの抬頭(123号掲載)

帰国後まもなく、小林忠正DCの次に塩川満章DCを紹介された。ゴンステッドセミナーをなさると聞いて、新大阪駅近くの会場へ挨拶に行った。米国のガンステッドセミナーではDCたちが、どのような疾患をカイロプラクティックで治しているとかを話したり、冴えたテクニックを見せたりとかで科学と技能の両面で精神的に良い刺激なのだ。

大先輩格の塩川満章DCが、初対面で「僕はね、週3日しか働かないんだよ。」と言った意味が未だに解らない。帰国早々の小生に「君も頑張れば成功できるよ。」と励ます意図であったのだろうと推察するものの、真意を訊ねる機会もないまま今に至っている。

ヒトにはいつか働けなくなる日が訪れるのだから、週に3日でも4日でも5日でも働ける間は働いて、社会の恩恵を還元するのが好ましいと小生は考える。在学中に、米国人の某高齢DCが、ご自分のクリニックで息絶えているのを、朝の予約に来た患者に発見されたことを聞いた。カイロプラクティックと、人類の健康に最期まで自らの生命を捧げた老DCの生き様を、同窓生一同が尊敬し、羨ましく思ったものだった。

東京ではDCLCの幹事役だった山田徳博DCが「帰国したてで金の余裕もなかろうに、大阪からの交通費だけでも大変だろうから、会費の心配はするな。会の為に仕事してくれたらそれで良い。」と暖かい言葉をくれた。1994年頃、遠藤光政DCとの間に口論があって、何が理由かよく判らぬままに山田徳博DCは去って、現在では米国でご活躍と聞いている。

当時、DCLCの会合で二度ほど同席した小池福夫DCがマトモなことを話す印象だったので参加協力のお誘いをしたら、「まだ我輩の出番ではない!」と断られた。この「我輩の出番」の意味は後に明らかになる。

日本ではカイロプラクティックが、未法制が故に危険な自称カイロプラクターが多く放置される結果、国民の認知を得られず、法制化に至らぬ悪循環が継続している。三浦レポートに続き、平成3年厚生省医事課長通達が出され、DCLC内の議論でも危機感が顕になった。「問題の原因は既存業者のレベルが低いから」ということで解決策が議論され、学術的基礎プログラムをモジュール構成されたセミナー形式で提供することを小生が提案し、DCLCの教育活動が始まることになった。

平成初期のDCLCは鈴木喜博DCを会長に、纏まりも良い印象だった。社会的責任感を共有するDCたちの賛同と協力を得て、「既存業者の教育レベル底上げ」を目的に救済策としてDCLCが組織的教育活動を開始したのは1994年だったと記憶する。時代のニーズを満たしていた様子で、参加者は多く、DCLCセミナーの盛況は対抗を意識する組織の注意を引いたほどだった。

しかし、振り返って見ると幾つも間違いがあったと考えるので具体的に話していきたい。DCLCの組織的教育活動を開始した根拠の「問題の原因は既存業者のレベルが低いから」と云う理由付けは、鈴木喜博DCの会長としての言葉を信用する余りに「犯人探し本能」が組織全体を支配して、DCLCでは「既存業者」を「犯人」に仕立て上げていたのだ。

言い換えると、正規のカイロプラクティック教育が存在しない日本では学術と技能とも「既存業者のレベルが低い」のは当然であろうが、規則も法規もないカイロプラクティックに関して三浦レポートに続いて平成3年厚生省医事課長通達を出してまで行政が拘りを示した理由と意図と背景は何か当時のDCLC役員たちは確認を怠ったと言わざるを得ない。

本当の理由は、三浦レポートが出されても平成3年に厚生省医事課長通達が出されなければならぬほどの施術事故数の急増であって、危険な施術家を多数輩出する無節操無責任なセミナー屋の存在が原因だと言われている。行政側には更に深い理由と背景もあったと推測するが、それらが何かを調べなかったDCLCは「木を見て森を見ず」だった。

さて、DCLCが業界団体として提起した解決策の底上げ教育活動だったが、宣伝広報に他のDCからアドバイスの一つすらもなく、業界関連の出版社に自分で電話した。カイロジャーナルには何故か避けられていると感じていたので、無駄に接触を試みなかった。医道の日本社には、長距離電話で「大阪のカイロプラクターでDCのナ…」と自己紹介を始めた途端に、「カイロもDCもウチには塩川が居るから、もう他は要らない。」と頭ごなしに断られ、話にならなかった。結局の処、エンタープライズ社の荒井編集長の御好意で宣伝広告をお取り扱い頂き、受講応募が始まってDCLCセミナーの開始に漕ぎつけたが、台所で問題のゴッタ煮の大鍋に火が付き始めていた。

次回に続く。


犯人探し本能(122号掲載)

1年前のコラム「心斎橋筋の異邦人たち」で述べたように、目抜き通りが某国の御一行と、大型旅行ケースで溢れ返るインバウンドバブルの最中だったなら、日本国内のコロナ禍が何倍も酷くなっていたかもと、想像するだけで怖い。コロナ禍による死者とのその御家族にお悔みを申し上げる。また、水際で未知のウイルスから国民を果敢に守ってくださった検疫官や自衛隊医療チームの皆様の勇気と御奮闘に頭が下がる。さらに、医療施設で自らの命を賭けて、患者の世話に従事してくださる医師、看護師と民間隔離施設など全ての関係者たちに本紙をお借りして心からの感謝を表したい。

今般のパンデミックでは感染対策と経済回復の観点から、世界的に組織やリーダーの資質が評価される風潮となった。その流れからか、国内の業界団体について解説の依頼が入った。当時は、日本風に体良く詰め腹を切らされたような身の筆者が話す立場に置かれた。関係者が口を閉ざしたまま忘却の彼方の塵埃に覆われようとする過去の事実に記憶の灯りを照らすので、国内業界の正しい成長の一助になれば幸いだ。

例を使って話すと、日産自動車の場合、カルロス・ゴーン前会長が巨額の金を搾取した疑いが生じて、その後のリーダーシップを期待された西川廣人社長が、自らの報酬に関わるトラブルに端を発して退任した。そのような人間の傾向を「犯人探し本能」と呼ぶ。誰かを責めれば物事は解決すると思い込むことで、他の原因に目が向かなくなってしまうために、将来同じ間違いを防げなくなると公衆衛生学者ハンス・ロスリングらは警告を発した。

悪いと言われたゴーンは、出入国管理をすり抜けて国外逃亡してしまった。過ちは過ちに違いなく、過ちは誰にでもあるが、誰彼が悪い以上に、不正やトラブルが起きる組織や状況が改善されるべきなのだ。

その後の日産の苦境が続くように、トラブルが起きた組織に普通の人がなかなか寄り付かないのは、日本のカイロプラクティック業界も同様だ。「失われた平成の三十年」とは、いわば財団問題の結果だ。そして世代交代は緊急の課題だが、業界のリーダーシップを期待される特に若いDCたちは、「財団問題」は疎かその前の「社団問題」も何も知らないか、誤解したままと言われるから、好むと好まざるに関わらず、現状では太平洋戦争敗戦後の未法制を記録更新する候補者なのだ。

日本国内のカイロプラクティック法制化運動は、昭和の「社団問題」と平成の「財団問題」で2度失敗した。それなのに、「社団問題」も「財団問題」すらも知らずに、「済んだ過去のことなど如何でも好い」と嘘吹く自称政治家の舌先で、一部のDCたちが踊らされているのは愚の骨頂に他ならず、過去から学ばねば、同様の失敗の繰り返しが続くのだ。

「社団問題」を詳しく知る者の数はすでに減っているが、いずれ機会があれば詳しく情報提供したいと思う。今回得た機会では、まず、「財団問題」に起因した「失われた平成の三十年」について語るのが、次世代を担う方たちには参考になると考える。

当時のいくつかの要因と共に、筆者の体験と過去の記憶を辿って記述していくので、登場人物や団体名などを含めて誤りがあれば、識者には躊躇わずに御指摘を頂きたい。また、この記事の目的だが、過去の出来事を蒸し返して特定の団体や個人を誹謗中傷する意図は一切なく、曖昧になりつつある筆者の記憶が鮮明なうちに可能な限り正確に記録し、釈然としないまま放置された歴史を、同じ轍を踏まぬよう後世に残すという試みであると明言しておきたい。もしも当時関係された方々にお読みいただけたなら、お怒りになる前に、補足または反論や訂正などカイロタイムズへの記事掲載をお願いしたい。願わくば、それらの掲載をきっかけに、業界が2度の失敗に至った真の原因に辿り着くことを望むと共に、新たな真実が明らかになることを期待して筆を執る。

平成の御代になり、カイロプラクティック法制化の動きは、全療協の財団が出来ただけの程度であって、全療協はカイロプラクティック業界団体の取り纏めを、行政から期待されていたと言われるが、結果は歴然としている。国内業界のメンタリティーたるや、東南アジアから極東の列島地域において、古代から土着民の間に顕著な群雄割拠の精神構造が根強く、また毛沢東以後の中韓日の国際関係に見られるように、権威を上に崇めて他を見下すことで自らを正統化しようとする心理要素も存在する。

そのような精神構造の社会においてDC連絡協議会(DCLC)は一線を画していた。1988年に仲野弥和DCの声掛けで始まったと言われる「DC会」が、翌年に鈴木喜博DCをリーダーにしてDCLCとなり、1993年頃は山田徳博DCを世話役に、東京亀戸で日本人DCたちが毎月のように集い、纏まって業界に有意義なことをしようと議論を重ねていた。

小生が帰国した際に、地元の先輩として挨拶に伺った小林忠正DCから「鈴木DCがDCLCを組織して頑張っているから、君も参加して助けてあげなさい。」と言われた。「君も」とは彼自身も東京の会合に参加している意味ではなかったのだが、小生がDCLCやCCJ(後述)に関わる機会を作ってくれたわけだ。

続きは次回に譲るとしよう。


江戸時代のヤブ医者と闇将軍たち(121号掲載)

江戸時代に医師を規制する法はほとんど無かったので、その気さえあれば誰でも医者になれた。徒弟奉公か私塾を通じて、見様見真似で多少なりの知識と技能を身に付けたと主張する者たちが医者を名乗れた。医学教育を提供した教育機関の存在も定かでなく、落語ネタになるほどの危険なヤブ医者だらけだった。現代の日本でカイロプラクティックを「高い、効かない、危ない」と国民が評価するのに酷似する状態だった。行政側がカイロプラクティック業界に安全性の改善を要望しているのが大きな違いだ。

無資格療法の「ズンズン運動」で死亡被害者が複数出た事件に端を発して、行政の助言で進んでいるカイロプラクティック制度化推進(準備)会議の管理下に徒手療法師の資格認証が行われる。受療者国民の安心と安全を尊重する国内業界団体の賛同を得て、カイロプラクティック法制化に向けて変革の時代を迎えようとしている。

もしも「ズンズン運動」は「ベビーマッサージ」だったから徒手療法師なんてのは的外れと思うなら、調べてみるとよい。「ズンズン運動」の裏には某カイロプラクティック団体の関わりがあったこと、そして裁判では「ベビー整体」として処理されたことが分かる。司法と行政の深慮に改めて頭が下がる。

徒手療法師の資格を制度化する目的は、先ず、カイロプラクティックを日本語で表現して国民の間に誤解が無いように分かり易くすることだ。次に、「玉石混交」をうたい文句にしているのではなく、学閥や所属に関わらず、業界を代表して国民と接するにふさわしい知識と技能と人格を有する施術者たちを受療者側が明白に識別できるような補完医療業界にすることだ。

「ズンズン運動」等に関わっていた個人や関係団体がこの機会に法制化に賛同する確率はゼロに等しい。同様に未法制の無法状態で利益を貪る闇将軍様たちが制度化に賛同することも期待しない。

しかし、少なくとも真面目に基礎医学教育を受けて知識と技能の研鑽に真摯に励む人たちならば、受療者国民の安心と安全のために自らの知識と技能が評価されるのを恐れる必要は無く、知識と技能の健全性が証明される機会を活用して、堂々と公正公平な認証を欲するはずだ。

過去3年に渡る経緯は国内の業界団体が既に知る事実だから、資格制度化に賛同するかの最終判断はそれぞれが自由に決めればよいが、いま参加協力すれば負担が軽くなる。後で悔いる可能性が有るかもしれないと思うなら、速やかに参加するべきだ。資格制度の動きが本格的に定着する時点で賛同参加していない団体や個人は、マトモでない施術者たちか悪徳商法に関わる輩たちと国民目線から見なされる可能性が生じ得る。

制度化背景を邪推して、未だ参加を決められない人たちと団体が少なからずいる。自分たちの生業に関わるだろうに彼等は、制度化推進(準備)会議事務局に問い合わせるわけでもない。疑問や問題があるなら意思表示すれば、業界として行政の助言に沿って公正公平な対処が可能だ。無言と無視を決め込んだところで、受療者国民の安心と安全のために、無作為の代償は業界人なら遅かれ早かれ支払うのが当然だろう。

無言と無視に関して付け加えるとすれば、四半世紀前に三浦レポートや医事課長通達が出された頃、DC連絡協議会(DCLC)のDCたちが業界のレベル向上を意図して、既存業者の底上げ教育活動に組織的に携わった結果、一定の受講内容を満たしてDCLCAと呼ばれるアシスタントの資格を与えられた人たちが相当数いた。この人たちも早く申し出るべきだ。

制度化推進(準備)会議としては、徒手療法師の資格認証に関して、これまでは会員向けの対応を主に行ってきたが、今後は、業界全体に向けての説明会を行う用意がある。説明会以外にも個別説明にも対応できるので、説明を求める団体やグループは、運営事務局へ問い合わせをしていただきたい。特にDC諸兄には正しい理解を求めたい。

未だ迷えるDCがいるなら、本場で本格的な教育を受けたリーダーとしての自覚を思い起こし、国民の安心と安全のための制度化に協力して頂きたい。本来なら、家族親戚が誇りに思う施術家として、地域住民が信頼する補完医療業界をDCたちが率先して築いて当然だ。


令和の新しいスタート(120号掲載)

法治国家日本でカイロプラクティックが未法制の状態は、太平洋戦争敗戦後七十五年に至るが、法制化を目指した大きな動きは過去に二度あった。三十年程前、千載一遇のチャンスと言われた大島財団構想は、一部参加者たちのマスカレード戦術と業者間の足の引っ張り合いで頓挫した。誇大妄想の海外組織の介入が国内DC達の連携も破壊し、結果は失われた三十年ならぬ逆行の三十年だった。

日本のカイロプラクティック業界におけるこの惨事を引き起こした無頼漢は、安泰の生活を保証された地位にいる。ジョン・スウェイニー元会長が遂に事実関係を理解して、世界連合に真実を伝えようとしたが、その意をこの世で果たせなかった。この紙面をお借りして哀悼の意を表させて頂く。

現在の日本代表団体がその設立マニフェストに法制化を掲げたのが、同じく三十年程前だが、世界連合にすれば、極東の小さな島国で過去に何が起きたとか何が真実であるかなどより、所詮は自己の地位と名誉のほうが大切なのではなかろうか。連中が言う法制化を達成できる確率はかなり低い印象だ。

近年の法制化運動としての大島財団構想に参加したDC連絡協議会(DCLC)の代表は「DCには出来ない」という謙虚な態度だった。「DC主導」を主張して登場した後任代表は、日本カイロプラクティック評議会(CCJ)をニュージーランド世界大会の弾劾裁判で弁護するために、国内DCの団結を証明する血判状の重要性も理解できていなかった。CCJの後任チェアマンに至っては、世界連合会籍が懸かった弾劾裁判に弁明のスピーチすら準備せず全くの他人事だった。

「DC主導」の錦の御旗に集った人たちが「DC主導」財団を行政に折衝した形跡はない。省庁改編を理由に行政が財団設立を中止した後も、法制化運動に努力してきた人たちに労いの気持ちも表さず、「DCでもない者に会う必要など無い」と言って、ロビー活動経験者に接することを拒み、「DC主導」の御題目は結構だが、「主導」は響き渡らず三十年過ぎた。

「仲良し会」メンタリティーでは、米国資格のDC学位が認められぬ心の傷の舐め合いでなかろうか。まして各団体が纏まり業界団体が纏まることが最大の命題とされているのに、学閥主義を素面で吹聴できるDCたちは、帰国DCが生き神様扱いされた時代も、業者目線で権威と権利を要求する時代も過ぎ去ったことを知るべきだ。

現時点の国内法でカイロプラクターは、DCだろうと週末セミナー履修者だろうと無資格の事実は変わらず、全員一律に最低線で見られる。カイロプラクティックといえば一般国民は「ズンズン運動」みたいなものと思うのだから、必要なのはDCの学歴や学閥とかでなく安心で安全なカイロプラクターだ。

国内法といったからとて国が悪いのではない。行政に協力せぬ業界人が悪い。未法制では最低限の安全性確保が難しく、補完医療として国民の認知を得ることが難しい悪循環の中に悪徳業者がはびこり、まともなことをしている者がバカをみる。この事実に知らぬ存ぜぬを通す方がもっと悪い。無資格者養成教育に投資をしない時代になり、カイロプラクティックの「学校」が軒並み開店休業状態と言われる。補完医療の一業界として保全管理が機能していないのだ。

業界内の最高学歴保持者としてDCたちが私を含めて同じ過ちを繰り返していては業界に改善も進歩もない。混沌とした状況でDCたちが群雄割拠を続けても業界の未来は暗い。我々の業界の強みは多様性と結束する力にある。全てのDCの結集が求められている。

「ズンズン運動」に某カイロプラクティック団体の人物が関わり、死亡犠牲者が複数出たことに端を発して設立された制度化推進(準備)会議が、受療者国民の安心と安全に重きを置く新しい法制化運動を担っている。必要と感じることを許される範囲で伝えてきたが、新たにお伝えすべきこととして、行政の助言で進んでいる制度化推進(準備)会議の管理下に徒手療法師の資格認証を行う運びとなった。

早期に申し込み完了する団体は受験申し込み料が免除される。以前から読者諸氏には御自らと友人知人たちがまともなカイロプラクティックの組織に属し、業界団体として纏まることを勧めてきたから、素直に対応してくださった方たちには嬉しい知らせだろう。制度化推進(準備)会議に直接参加して確かめたい人たちには団体会員と個人会員の枠が設けられている。会議運営に必要な会費等の詳細は事務局にお尋ね頂きたい。


当たり前のことが当たり前に(119号掲載)

カイロプラクティックの危険性を1989年頃から1年半ぐらいかけて、厚生省(現厚労省)が科学技術研究費を使用し、当時の東京医科大学・三浦幸雄教授を中心とした7名の整形外科医に委託され、調査研究がおこなわれた「脊椎原性疾患の施術に関する医学的研究」(以下、三浦レポート)が報告した四半世紀後、消費者庁報告書(消安全第187号)も危険性に警鐘を鳴らした結果、業界として25年間で何も改善できなかったことがあからさまになった印象だが、何がいかに改善されてきたのだろう?国内でカイロプラクティックを標榜する人たちは、何を考え、何処に意見を伝えているのだろう?また、世界カイロプラクティック連合(以下、WFC)か政治家か、あるいはどの省庁府の指導に従う考えなのだろうか?

自己責任の下に自由は保障されているので、各自が信じたいことを信じて良いが、その各自が信じていることがどの程度真実なのだろう。例として視覚に存在する盲点の部分に視覚情報はないが、脳は盲点を補う情報をも勝手に創り出して、見ていると信じる外界を見せている。

また、フェイクニュースではなくとも、情報として伝えられることや聞かされることも、都合の良い写真や話術や演出に惑わされている者が少なくないような印象だが、あやふやな薔薇色の無法状態が法治国家で永遠に続く可能性は低い。

自由主義を掲げた官僚社会主義国家と言われる日本の行政側はいかに考えるだろうか?何やらカイロプラクティックという理解に困る民間療法が、効くこともあるらしいけど、骨折、脱臼、脊髄損傷まで起こすほど危険で被害者多数と消費者庁が統計的に証明している現状では、国民を重篤な被害から守る簡単明瞭な方法はカイロプラクティックの禁止だと考えて当然だが、未だ禁止に至っていない理由は、最高裁判例がある中で行政側が熟慮を重ねているからだと思う。

しかし、規制は始まっている。過当競争に押され、収益増加の為にカイロプラクティックに参入してくる有資格者たちが多い訳だが、有資格者たちは既存の法で管理されるので、業務範疇の再確認で自主規制を迫られているようだ。有資格者が起こすカイロプラクティックの事故数が無資格者による事故数より多いことを大手新聞が記事に報じたから尚更だろう。基礎医学教育が同じとしても、週末セミナー数回で専門課程を終えて世界基準の安全性を担保する知識と技能を身に付けられると考えるのは思い上がりだ。「ワンコインカイロ」の看板で保険制度を乱用するような違法業者は排除されると良い。

三浦レポートと平成3年医事課長通達が出された当時、国内のDC達は既存業者の教育レベルを底上げしようと協力した。受講資格を審査し、「カイロプラクティック総覧」を共通テキストにした組織努力を「ド素人にカイロプラクティックを教えている」と誤報を捏造し世界中に流布し、崩壊させた輩たちがいた。

以来、四半世紀もの歳月をかけて彼等が努力を重ねたのであろう結果、消費者庁報告書もカイロプラクティックの危険性を指摘するに至ったのだから、代表団体としての目的と手段は、関与する政治家と一部官僚と世界連合を除けば、業界と国民の評価に耐えるか疑問だ。法制化を掲げていたマニフェストは備忘録だったみたいな印象だが、煽り立てて内容証明を招くつもりは毛頭ない。

国内カイロプラクティック業界にとっての社会的責務は、可及的速やかに受療者国民を守る環境を整備することに他ならず、法制化が強く望まれる。法制化に関しては、太平洋戦争敗戦直後の連合国軍と日本でもあるまい。世界保健機関の下部組織であれ、各国民間団体の寄り合いに過ぎぬWFCが、独立国家日本の主権を超越してカイロプラクティック法制化を達成できるわけがない。法制化を遂げた国々のリストをWFCが掲げてはいるが、すべての法制化は各国の業界がロビーイングした努力の成果だ。

戦前の法制化運動では、大正5年に帰国したパーマースクール卒業生の河口三郎DCの働きかけで、官撰の神奈川県知事を勤めた有吉忠一氏の下に「神奈川県令(大正7年度)脊椎骨調整術(カイロプラクティック)営業取締規則」が日本初のカイロプラクティック規制として施行され、同様の規則が全国的に広まり、GHQ統制まで続いた。

戦後の法制化運動には、大物政治家と称される小坂善太郎氏と小泉純一郎氏の名前が出た。小泉氏はカイロプラクティックではなく鍼の治療を受けていたと言われている。 

戦後75年の節目を目前に、カイロプラクティック法制化を達成した政治家は未だいない。指導省庁に関して行政側は、業界の選択に備えている。医業類似行為は厚労省管轄で、リラクゼーション業は経産省の管轄だ。

各事業者も各団体もカイロプラクティックを標榜するのならば、補完医療として医業類似行為に属するのか、単にリラクゼーション業扱いに甘んじるのか、二者択一の決定をするべきときが近づきつつある。


心斎橋の異邦人達(118号掲載)

大阪の心斎橋筋では、近接地域の再活性化で若者達の姿に入れ替わり、近年はインバウンドと呼ばれる外国人旅行客たちで溢れかえるようになって、特に近隣諸国の経済力の高まりを感じさせられる。

同じようなアジア系でも、行動パターンに違いが見られる。儒教文化の影響下に育ったらしい青年たちの礼儀正しさは好印象を受けるが、全く対照的に、団体で爆買い用に大きな旅行ケースをガラガラと牽いて歩き、通行人の流れに逆行して平気で進んでくるのはおおよそ間違いなく「富裕層」なのに呆れる。地元経済とオモテナシのために我慢している。

この類のアジア系インバウンドたちが、日本国内のカイロプラクティック業界のイメージに似通って見えるのは、小生の偏狭か錯覚であろうか。社会が自分たちを認めることを要求するのに、社会への気遣いに乏しく、法整備への協力も他人事のよう。「アメリカでも何処でも行って(カイロプラクティックを)やってくれ!」と言った官僚の気持ちがわかる気もする。

さて、輸出立国から観光立国への舵取りで、観光が資源として捉えられているのだが、サステイナビリティーはどのような具合だろう。インバウンドは増加傾向らしいが、母国の経済も対日政策もいつどうなるかわからないから、観光産業の資源は不安定だと言っている間に本国の税法改正で、「神薬」を爆買いする旅行ケースのキャラバンは減った印象だ。

世界の一流企業や業界は資源と市場のサステイナビリティーとガバナンスを真剣に考えている。国内カイロプラクティック業界の人材は資源なのだろうか?学位や資格を偽る者なら詐欺師だし、カイロプラクティックの名の下に無効な施術を行う者も同じグループの化合物だ。教育と技能のレベルを超えて無謀な施術で重篤な事故を起こす者は危険因子だし、事故を統計の範囲だとか屁理屈を並べて済ます似非インテリは、業界の偽善者であっても資源とは言い難い。劣悪なカイロプラクターを濫造する業者たちは業界の負債だ。

少しはマトモなカイロプラクティック教育を提供する学校も下等教育を商いにする業者も国民の目には同じに映る。それら全て、「学校」を名乗る個人会社に過ぎず、日本の文部科学省や都道府県が認可する学校ではない。教育プログラムの海外認証を受けたとか受けるとか言うところも一部にあるが、この辺りは何か一言でも気に入らないと内容証明を送り付けてくることで知られる筋もあるので、触らぬ神に祟りなしだ。また、有資格者養成校でカイロプラクティック教育を宣伝しているらしくて紛らわしいところもあるが、社会的脅迫を招く必要はないから言及を避ける。大同小異で皆が仲良く纏まれば良いのだ。

国内法は無認可の「学校」による無認証の専門職育成課程を許容しているのだが、未法制の分野では業界主導が求められてきた。少しはマトモなカイロプラクティック教育を提供する者達が纏まって学校協会を設立した史実は有るが、協調活動は功を奏することもなく、教育のレベル向上を図る努力など無に等しかったのか、結局、それぞれの利益追求に傾いたことになる。

マトモなはずのグループが「学校」や「教育」を口にする「商売」だったのなら、それらを模範にしてもマトモ以下の業者たちにマトモな教育が出来るはずもなく、危険な自称カイロプラクターが増えても、事故発生率が減らないのは当然だ。カイロプラクティックの評判が「高い、効かない、危ない」では、国民の認知を得られない社会環境だ。

学校法人ではない個人企業が「学校」を装っても、国家が認める資格を出せないので、若者達が食べていける資格を得ようとする近年の教育市場で孤立衰退は自業自得であり、業界の「学校」に「廃校」の噂があちこちで囁かれている。新規入学者が無くなり、教育レベルの如何に関わらず次世代を担うマトモな者たちが居なくなれば、業界が実質的に自然消滅する。あるいは、カイロプラクティックが柔整師や鍼灸師のテクニックで終わるのか。この現状を業界団体のリーダーたちはどう考えているのだろう。

末筆ではございますが、国内業界の健全な発展に深い関心を示してくれたDrジョン・スウェイニーの逝去に心からお悔やみを申し上げます。


戦後処理の不公正(117号掲載)

戦後処理の不公正は北方領土問題だけに限らない。沖縄の問題はどうなのだろうか?今は基地移転問題で政府と沖縄県民がおしあいへしあいして、実にギクシャクしているように見える。沖縄県民の考えは纏まっているのか定かではないし、沖縄県民の考えを日本国民の代表たちが理解しているかは、議員たちと国会の責任かと思う一方で、メディアは積極的に正確な情報を発信しているのかが定かでもない。知人の米軍関係者や家族と話す機会があり、あれこれ哀しい事件が起こったことを知る年長者は、沖縄県民の気持ちを理解する傾向だが、若年層は沖縄が非協力的と受け取っている様子だった。共通の脅威に関してお互いの理解と協力が必要なのに、どれくらい問題を引きずるのか、先が思いやられる。この様子を見てカイロプラクティック業界を連想するのは、筆者の妄想だけでもないだろう。

制度化推進準備会議は8回目の会合を迎え、オブザーバー参加の諸団体から熱心にフィードバックが出されて、新たな追加を含めた業界統一用語定義がまとめ上げられた。これは重要なステップだと思う。また、禁忌症に関してMaigne、MaitlandやHaldemanを参照にした資料が提出されて、「医学的な内容に関して医師の同意を得る」ことが勧められたのは興味深い。平成3年、厚生省医事課長通達を超える項目数の禁忌症状を自主的に挙げることが好ましくないでもないらしい。行政側が気配りしてくれているのだ。

用語定義の一部で、問診、聴診、打診、触診を「古典的四大理学検査」という表現では「なんぼほど古くさいことをやっているのかと思われるのが嫌やから、『古典的』を原理的に替えて欲しい」旨の依頼が事務局に届き、参加者達の諮問にかけられた結果、オブザーバー団体からも疑問が示されたようだ。

「なんぼほど古くさいこと」と言われても、カイロプラクティック自体が百年以上の歴史を持つ上に、マニピュレーションの歴史は背骨と同じくらい古いと始祖パーマーが記している。正統医学は古代ギリシャ以来二千年の歴史で、外科手術用具の原型はローマ時代に完成している。薬学は古代エジプト以来五千年の歴史だ。医師たちや薬剤師たちは一般市民から「なんぼほど古くさいことをやっているのか」と思われているのだろうか?カイロプラクターならば、誰かに古くさいと思われるかなど心配するより、カイロプラクティックは「高い、危ない、効かない」と国民に思われていることを憂慮すべきだろう。

あえてもっと言うなら、定義の文言修正などは後ほどでも可能だから、今は法制化の骨子を準備するのに必要と考える事案を、自発的に提案することのほうが望ましいのではなかろうか。

今後の法制化準備会議の進捗は、厚労省担当部署の指導と推進会議事務局の対応に委ねられるのはこれまで通りなのだが、遅かれ早かれ法制化のための業界整備が課題として語られざるを得ないと推測する。

カイロプラクティックを標榜する国内業者の知識技能レベルは、医業類似行為レベルから慰安行為レベルまでの幅があり、業者数は、最少限でおおよそ二万人の存在が推測されると言われている。全国コンビニエンスストアの店舗数を追う勢いの、柔道整復師が営む整骨院の数には及ばないけれども、按摩マッサージ指圧の施術所数にほぼ等しい数の無資格者が放置されている。

ところが、近年の規制緩和によって市場を飽和した有資格者たちの中には、差別化を求めてカイロプラクティックを、週末セミナーを生業に取り込む者たちが少なくない様子であり、国家資格さえ取れば食べていくのに困らない訳でもないらしい。業界人口分布の複雑さに奥行きを加えている。有資格者と言っても他業種の2500時間専門教育を受けた人たちが、適確に構成された教育課程を経ず、適当に週末セミナーでテクニックの切り売りを蒐集しても、世界基準が許容する教育レベルとは時間数の差が残る。

法制化を好むか好まぬかは、業者個々人と各団体の自由なのだが、長年の未法制の結果が現状であり、カイロプラクティックの施術で骨折、脱臼から脊髄損傷まで起きていることが明らかなのだ。有資格者が悪いと言っているのではない。知識技能レベルの低い者が事故を起こしやすい。

安全性の課題も技能レベル向上の必要性も過去から言われている。ゆえに平成3年医事課長通達が出たし、三浦レポートも出されたのだ。然し、大した改善も無いままで30年近くが過ぎた。これこそが既に「古くさいこと」の感じになりつつあるにも関わらず、業界として対処を終えていないのだ。


禁止規制の恐れ(116号掲載)

カイロプラクティックは、世界的に補完医療と認知され、先進諸国では法制化されているが、日本では医業類似行為か慰安行為か何なのか不明瞭なままで容認されている。勿論、職業として省庁府の職業分類に挙げられているが、税務処理上の便宜程度に過ぎない。

憲法第22条は、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。」と記されていて、職業選択の自由を保障しているが、営業権は保障していない。気に入らぬなら、「アメリカでも何処でも行って(カイロプラクティックを)やってくれ!」と云う訳だ。

GHQ占領政策が西洋医学以外を禁止した際、戦前の法的地位取得を願う鍼灸師の活動に按摩師と柔整師が合流し、医業類似行為の枠が決まったのだ。昭和22年(1947)制定のあはき法は、「何人も第1条に揚げるもの(あまし、はり、きゅう、柔道整復)を除くほか、医業類似行為をしてはならない」(第12条)とした。公布時に医業類似行為を3カ月以上業としていた者は都道府県知事に届け出て当該医業類似行為を業とすることができる(第19条)と規定し、届け出資格は公布時(1947年)に当該医業類似行為を行っていた者に限られた。

後藤博氏は、療術の講習を受け、福島県であん摩師、はり師、きゅう師、柔道整復師のいずれの資格も持たず、療術既存業者として届出もせずに電気療法(HS式無熱高周波療法)を業としたことで「あん摩師、はり師、きゅう師及び柔道整復師法」が禁じる無資格医業類似行為を行ったと判断され、昭和28年(1953)に福島県平簡易裁判所から罰金刑の判決を受けた。

「自分の施した療法は、いささかも人体に危害を与えず、保健衛生上にも何らの悪影響を及ぼさず、しかも相当の治療効果を上げ得るものであるから、これを業とすることは少しも公共の福祉に反するものでなく、憲法第22条の保障する職業選択の自由の範囲内に留まるものである」と後藤氏は仙台高等裁判所へ控訴した。

仙台高裁は、人体への危害の可能性、正当な医療を受ける概念への影響、疾病の治療を遅延する恐れなどから、正当な医療の普及徹底と公共の保健衛生の改善向上のため望ましくないと判断し、「職業の自由は公共の福祉に反しない範囲においてのみ認められる」と結論して、控訴を棄却した。

「自分の施した療法は、何ら危険はなくかつ有効無害であり公共の福祉に貢献しているのであるから、かかる職業に対し、あはき法を適用して処罰するのであれば、同法は憲法第22条に違反する無効なものであり、自分の行為は罪とはならないものである」として後藤氏は最高裁へ上告した。

最高裁は、「医業類似行為を業とすることを禁止処罰するのは、人の健康に害を及ぼす恐れのある業務行為に限局する趣旨と解しなければならない」が、禁止処罰自体は「公共の福祉上必要であるから(あはき法)第12条、第14条は憲法第22条に反するものではない」として原判決を破棄、仙台高裁へ差し戻した。

この昭和35年(1960)最高裁判決が「有害の恐れのない医業類似行為は禁止、処罰の対象にはならない」という新しい基準となり、覆されることなく今に至り、法的地位も保障されぬままのカイロプラクティックが営業権を容認される法的な根拠とされてきた。

あはき法は、昭和39年(1964)改正で医業類似行為の届出に関する規定と有効期限が記された第19条は削除された。また、手技療法資格は、あん摩師のみからあん摩マッサージ指圧師(あまし)に広げられ、届出者は職業として無期限の営業が可能になった。手技療法は、あまし以外で開業することがあはき法第12条で禁止されている。

一方、平成2年の三浦レポート以来、平成29年の消費者庁ニュースリリースがカイロプラクティックの危険性に再度の警鐘を鳴らし、有害の恐れが明らかにされているから、最高裁判例に照らし合わせて、禁止、処罰の対象になるか、あるいは何らかの規制が出されても不思議でない事態だ。

ちなみに、後藤氏の場合、仙台高裁での差し戻し裁判で、昭和38年(1963)7月有罪となり、再度の上告は棄却されて敗訴が確定した。無資格無届出の後藤氏に組織の後ろ盾はなく、自分の信念だけを支えにただ一人で立ち向かった12年間に及ぶ裁判闘争だった。誰しも後藤氏の立場に身を置けば、業界が纏まることを行政側から勧める意味は理解可能な筈。末筆ながら、科学新聞社様の関連記事を参考にさせていただき、ここに謝意を表す。


無言の行の効能(115号掲載)

日本人はどんな人達かと問うと「親切で、優しく、真面目」というのが世界的評価であることは、明治新政府を牽引した官僚達が優秀であった証と言われる。彼等は命令染みたことを言わず、替わりに「日本人は親切で、優しく、真面目な国民だ」と民衆に言いふらしたのだ。協調性の高さも日本人の国民性として挙げられる。義務に応じることを何故と尋ねると、「皆がそうしているから」と答えが返ってくる。

日本人DCはどんな人達か問われたら、どう答えると良いだろうか。留学し、米国社会で生活したのだから、日本人の美徳の上に米国社会の良いところを身に付けた人達と一般に期待されるだろうけれど、米国の大学で学位取得まで果たす知性のある人達が、仮に日本人のダメなところにアメリカ社会のダメなところを足し合わせた程度ならば、カイロプラクティックの安全性や法制化にも無関心かもしれない。

カイロプラクティック制度化推進準備会議が二年継続して開催されて、開催地東京在住のDC達は初回に三人出てきた。他府県からは二回ほどセミナーのついでとかで出てきたDC数人がいた。他には同窓会や友人グループのまとまりがあるとは聞くが、交代で代表者を参加させる様子もない。

継続して参加しているDCが約3名では、現役DCの国内人口を100人とすると、統計学的に意味がある値にすら達しない。先進国並みの法制化を成就し、国民に認知される安全なカイロプラクティック業界にしようとする専門性、社会性、協調性などを日本人DC達が持ち合わせるのか疑われる数字だ。

関係省庁代表が「DCの方達はカイロプラクティックの法制化に興味無いのですね!」とおっしゃるのも当然で、省庁と関わりの深い関係者が「DCさん達は気位ばかりが高い」と溢す。世界基準の高度教育を受けたDC達が、国内業界の現状を理解する力に乏しく、法制化の理解も低いと思われているのだ。

制度化推進準備会議事務局長の努力で、DC達が関わっている2団体のそれぞれ事務長の方達がオブザーバーとして参加し始めたが、それら団体のDC達も関係省庁代表者達への挨拶だけでもお越しになると好ましかろう。他のDC達が関わる組織も、風向きを感じるだけでも参加してみるべきだ。

法制化に関して、僭越な表現に聞こえたらお許し願うが、DC諸氏には物事の道理と社会的責任を真剣に考える時期が既に来ている。法制化の全てを他人任せで良いのだろうか。制度化推進準備会議に省庁代表者達が立ち会っていることは周知の事実であり、これらの省庁代表者達は、制度化が確定した段階で関係法規の策定に携わる立場の方達だ。そして彼等は社団や財団を作れと言うでもなく、法制化に向けて業界としての課題を整理することを促している。行政側は好意的だが、関係省庁で人事が変わると、トップダウンで理解も協力も突然に変わり得る。DC諸氏が法制化を望むのならば、行政側が好意的な内に協力するほうが賢明だ。

仮に制度化推進準備会議が中止に至れば、今回の法制化運動は終わり、次に法制化の機運が起こるとすれば、経験則から演繹的に二十年後と推測する。ちなみに、以前の法制化運動に深く関わった某DCの有名な言葉を借りると、「日本人DCには無理」だろ。

カイロプラクティックを標榜する者全員をリラクゼーション業に組み入れる準備は既にあることも周知であり、消費者庁が危険性を報告したカイロプラクティックを、海外の学歴や資格など関係なく公平に、補完医療の枠から外すほうが国民の安全の為に即効的と考えられる可能性がある。

政治家絡みやWFC頼りで独自に法制化する方法論が主張されたことは、手段の妥当性を別にして、法制化賛成を意味する。法制化反対の声は過去2年間も聞こえてこない一方で、DC達の総意は異なる宗派の百体の仏像の唇を読んで御尊意を忖度するに等しい現状だ。「言うべきときに言うべきことを言う」のが難しいなら、「会議の為の会議」を各団体で行うと良い。制度化推進準備会議が会議の為の会議であり、制度化推進会議に昇格すれば、法制化の枠組が会議運営に尽力してきた団体を中心に決められるのは当然の流れになるけれど、無言のDC諸氏は異存ないのだろうか。


東洋の不思議(114号掲載)

昨今のマスコミを賑わせたのが某大学アメフト部員の傷害事故に関する一連の報道だ。スポーツマンらしい正義感と人間らしい思いやりの欠如からだろうか、立場をわきまえず全て他人事の様な態度を続けていた指導者達が、社会の批判と勧善懲悪の制裁を受けた。カイロプラクティックをアメフトに置き換えてみると如何だろうか?比喩というものは論理学的に必ずしも常に完全ではないが、業界人なら考えてみる内容はある。

傷害事故は、旧厚生省平成3年通達にも関わらず、骨折、脱臼、果ては脊髄損傷等の重篤な事故が多発している事実に基づいて危険性が指摘され、安全性改善要請(消安全第187号)が消費者庁から出されている。被害者の申請に基づくデータは消費者庁で管理していて、加害者たる施術者の氏名、資格、所属団体も公表されていない。

危険な施術で身体的、精神的、及び経済的な被害を受けた患者さん達は勿論だけれども、間違った理論や危険なテクニックを授業料を払って教えられた者達も被害者であるとも言える。真の加害者は、危険な自称カイロプラクター達を乱造し続ける輩達だ。

某団体の年表に依ると、短期コースを提供する国内の主な業者達に学校協会の設立などを以って教育課程の充実などが促されたけれど、彼等が応じた形跡、もしくは結果が無い。更に、教育とは言っても個人会社が自由に「商売」する学校ゴッコに他ならない。

どのレベルの人達が教育に関わってきたのだろうか。個人的な話で恐縮だが、某カレッジのA校長に施術をお願いしたことがある。A校長が得意と言うガンステッド・テクニックではASexのダウンサイドはキック・プルのテクニックがテキスト通りだが、ダイビング・パンチみたいなことをされた。高度な技能を有するDC達が集う総本山マウント・ホーラブに筆者は幾度も行ったが、ダイビング・パンチみたいなことは全く見たことがなかったので、そのようなテクニックを誰から習ったのかと訊くと、某スクールのB先生だと満面の笑みで誇らしげに答えた。

基本的な生体力学的条件が満たされるなら、テクニックのバリエーションは許されるが、関節面と関節面を衝突させ合うような生理学的不合理はおおよそマトモなカイロプラクターならしない。A校長にホンモノのガンステッド・セミナー参加を幾度も勧めたが、無駄であった。B先生への敬愛は好きだが、セミナー参加し、自らの技能の評価検証がされれば、虎の威を借る狐の如く振舞う必要は無いのだ。

しかし、事実は更に奇妙なのだ。B先生のセミナーで勉強しているという治療家のC氏から相談を受けたことがあり、「B先生が『ASは無い』と仰るんです」とC氏は困惑していた。B先生と懇意なD氏に依ると「皆、左のPIexで、日本人にはダブルPIが多い」そうだ。

仙腸関節にASのサブラクセーションが無いのなら、米国のカイロプラクティック教育の基本に誤りがあることになるし、或いは日本人固有の現象があるなら、貴重な臨床的発見だろうが、科学的根拠が無ければ、単なる個人の意見に過ぎない。有りもしないテクニックに危険性は高くても有効性は低い。それをまことしやかに他人に教え、教えられたほうは疑問すら抱かず、有りもしないテクニックを治療と信じて患者に行うばかりか、学生達に教えて、学生達はその有りもしないテクニックをそれぞれの患者さん達に行う。このプロセスの根本的なエラーが、多くの被害者を作り出し続ける負の連鎖の原因だ。

特定の個人の「背に腹は変えられぬ」行動をとやかく非難するのではない。彼等の活動があったから現在の業界があるのかもしれないが、教育としてのエラーが永らく続いてきた結果、業界の粗悪な質的問題が解消されていない。厚労省通達と消費者庁要請を真摯に受けとめるべき現状の業界では全員が、何処の誰から習ったに関わらず、用語の定義や基礎概念を含めて、施術の安全性を一から全て見直す必要がある。

安全性改善は業界に属する各団体の指導者の責任感と自主性に委ねられている一方、DC達は、最高レベルの教育を受けた者として、自らが好むと好まざるに関わらず業界の指導者と見なされているので、相応に自主的な責任ある行動が期待されている。


カイロプラクティック法制化への道筋(113号掲載)

太平洋戦争敗戦後の日本は連合国軍占領統治下に置かれ、マッカーサー元帥の指揮でGHQが当時の自由で民主的な米国社会のコピーを日本に創り出そうとしていた。医療に於いても米国にて合法であった西洋医学を許可し、その他の医療は全て禁止しようとしたのだ。内務省が解体されて出来た厚生省も医師会も異論は無かったと言われている。

進駐軍の民主化施策は、「非科学的で医学的根拠がない」という理由から鍼灸を禁止しようとしたが、それを聞いた京都帝大教授の石川日出鶴丸医学博士は、進駐軍が接収していた大阪心斎橋筋の旧そごう百貨店ビルにGHQの医療政策担当官を自ら訪れ、鍼灸を未科学故に非科学的と結論することこそ非科学的と説き伏せたのは美談だ。全国の鍼灸師達が鍼灸存続運動を展開し、按摩師柔整師達も同様の活動を起こした結果、1947年、日本国憲法下に「あん摩、はり、きゆう、柔道整復等営業法」(法律 217号)により現代のあはき法が制定されて、伝統医療が戦前の地位を回復した。

カイロプラクティックは1916年に川口三郎DCによって日本へ伝えられ、患者であった当時の神奈川県知事の助力もあって日本で最初のカイロプラクティック規制法の「神奈川県令(1929年)脊椎骨調整術(カイロプラクティック)営業取締規則」が施行されたが、GHQの施策で1947年に廃止された。他には東京都による警察への届出規則もあったが、同様に廃止された。これらは風俗法の様なものだったと言う皮肉な意見も聞くが、現在の無法状態よりはマシと思える。

戦後のカイロプラクティック法制化を賭して某大物政治家を擁した社団運動が起きたが、ミステリアスな噂だけ残った。20年ほどが過ぎ、1995年のカイロプラクティック百年祭に国内カイロプラクティック団体が多数集まり法制化の機運は高まった。百年祭の催しにあの一大政治家と言われる人物が出席したのを見たけれど、この団体グループによる法制化運動は財団問題で頓挫した。

百年祭の折、参加グループ代表の某DCに法制化に付いて尋ねると、「法制化なんかされたら商売の邪魔になる!」と苦々しく言って退けられた。法制化を目指し計画された百年祭と財団に、建前が法制化賛成でも本音は法制化反対の人が恐らく複数で関係したのだから、法制化が進む筈などはなかった。

財団問題に伴い、世界カイロプラクティック連合(WFC)の日本代表団体の交代劇があった。旧代表団体では財団が出来れば法制化が始まるシナリオだった様だが、緘口令とかを理由に全容が明示されなかったので、恐らく低次元の法制化が計画されていたのだろう。新代表団体は法制化をマニフェストに掲げたが、ほぼ四半世紀に渡る独自の努力の成果には未だ期待が要求され続けている。

手技としてのカイロプラクティックは療術団体の努力で法制化が進められている様だ。また一方で法制化を望む国内カイロプラクティック団体が協力し、厚生労働省と消費者庁の代表者達も参加して法制化推進準備会議が回を重ねていることは周知の事実だ。某団体の代表は世界カイロプラクティック連合に従い法制化を進める独自路線を歩むと主張し、別の団体代表は政治家を使って法制化を達成すると主張している。過去と現在の事実に照らし合わせて彼等の主張は実現性が低いと思えるし、業界が纏まるようにとの行政の要望に沿わない。既に消費者庁から危険性が指摘され、無資格手技療法として国民に危険なカイロプラクティックを行政と市民団体が仙台高裁判例に矛盾してまで許容し続けない。悠長に法制化の手段云々している間に禁止されてしまっても不思議はない状況だ。

解決策は、行政の指導に従い国内カイロプラクティック団体が纏まって法制化をするか、医業類似行為から除外されるかの二択なのだ。国民の健康と安全を視野に入れ、医療として法制化する為に、カイロプラクティック法制化準備会議が勝手に降って湧いた訳も無ければ、行政代表を混じえて永遠に継続される筈もない。次の段階は法制化会議と想定される故、全ての国内業界団体は、現実を冷静に判断して、規制無しに参加できる内に参加して、意向を明らかにするのが賢明だ。厚生労働省が法制化準備会議事務局にカイロプラクティックの科学的根拠の提出を求めている現状では、まともなカイロプラクティック業界団体ならば、公正公平を期して纏まり、協力することが最も重要だ。


消安全第187号(112号掲載)

カイロプラクティックの危険性が再び問題視されている。 施術に関する安全対策の要請が消費者庁消費者安全課から出された。平成29年5月26日付の「消安全第187号」がそれだ。法的資格制度が無い医業類似行為の手技による事故発生情報が、平成21年9月から平成29年3月までの7年半に1,483件も消費者庁に登録された。 頻度を単純計算して月当たり16.5件、毎週約4件の事故が日本のどこかで起きている。 平成21年度は半期で百件以上の被害報告が有り、平成24年度の271件をピークにして被害が減少する兆しが見られないので、消費者庁が安全対策を要請するのは当然だ。

それら1,483件の被害を治療期間で分類すると、1ヶ月以上を要するのが16%、3週間~1ヵ月が9%、1~2週間も9%と報告されている。 即ち、1週間以上の治療を要する被害が全体の3分の1以上を占め、その中で3週間以上の治療を要する被害は全体の4分の1もあるのだ。 被害者が1週間も就労できなければ、治療費と休業補償の民事訴訟が傷害罪の刑事訴訟に伴い得る。

その思考プロセスを助けるのが被害症状の内訳だ。 神経・脊髄の損傷がトップで20%、擦過傷・挫傷・打撲傷が16%、骨折は8%、筋・腱の損傷が7%、皮膚障害4.6%、脱臼・捻挫は2.6%と報告されている。骨折、脱臼、筋・腱の損傷は重篤だし、神経・脊髄の損傷は言うまでもなく後遺症の可能性も考えるべきだ。

1,483件の事故データに関わった手技療法の分類は、「整体」31.5%、「リラクゼーションマッサージ」16.9%、「カイロプラクティック」14.9%、「リンパ・オイル・アロママッサージ」6.0%、「骨盤・小顔矯正」4.9%、「リフレクソロジーなど足の施術」4.0%、「その他・不明」21.8%の順に並んでいる。

更に手技別に1ヵ月以上の治癒を要した重症事故の発生率が示されていて、重症事故の割合は「カイロプラクティック」20.4%、「整体」17.1%、「リンパ・オイル・アロママッサージ」15.6%、「リラクゼーションマッサージ」14.3%、「骨盤・小顔矯正」4.2%、「リフレクソロジーなど足の施術」3.4%、「その他・不明」22.8%だ。

よって事故発生率の1位は整体で、カイロプラクティックが3位だが、重症事故発生率の1位はカイロプラクティックで、2位の整体を抜いている。 国民にとってカイロプラクティックは事故のリスクが高いばかりか、事故が起きたら重症の危険性が高いということになる。 既に平成3年6月28日に厚生省(当時)が出したカイロプラクティックに関わる通達(医事第五十八号)に加えて今回は消費者庁から安全対策を要請されているのだ。

人体に無害ならば無資格医業類似行為を許容した仙台高裁判例をカイロプラクティックが傘にきることは叶わなくなる。 職業選択の自由を謳う憲法の解釈も変わってくる。 まして行政からの通達と要請に十分な対応を怠り、国民に対して危険な無資格施術行為を続ける者達に、職業選択の自由を誰も擁護などしないのは一般常識の範囲だ。

カイロプラクティック制度化準備会議の席で消費者庁の代表から、カイロプラクティックは経済産業省管轄のリラクゼーションに含まれたら良いと発言があったのだから、少なくとも消費者庁はカイロプラクティックが無資格医業類似行為から排除されるべきと考えているようだ。 リラクゼーションに移管されたら、医業類似行為の枠内に戻れる可能性は無に近い。 カイロプラクターとしてアジャストメントの手技で行う施術行為は禁止対象になり、日本国内に於いて本来のカイロプラクティックは崩壊する。 この事態を回避するには、まともな業者がまとまり、業界団体として行政との意思疎通を潤沢にする必要性は過去にも述べてきた通りだ。


ケイティ・メイ死亡事件②(111号掲載)

救急病院の処置とすれば、1日観察入院もあり得るが、異常が(見つから)ないから問題無しでバイバイだったのか、痛みが続くなら再診を勧められたのか、詳しくは全く判らない。 救急病院へ行ったと想定して、そこで異常無いと言われたのであろうケイティは、痛みの原因を神経圧迫と考えて、カイロプラクターを訪れた。

ケイティを受け入れたカイロプラクターは、転倒事故があったことを問診で聞いたはずだ。 仮にケイティが転倒事故直後に救急病院へ行っていたとすれば、それに付いても聞いたはずで、ケイティが感じた重篤性を共有し得た。 即ち、このカイロプラクターは、少なくとも転倒事故のメカニズムと急性期に於ける潜在的な危険は知り得たと思われるのだが、どの様な処置が為されたか、或いは為さなかったのか定かでない。 然し、頚椎のアジャストメントは行われたかも知れない。痛みが治まらぬケイティは再診でそのカイロプラクターを訪れようとしていたのだ。

さて、椎骨動脈?と注意深い読者は仰るだろう。 日本の業界関係者経由で見たL.A.郡検死官の報告書は、鈍力に依ってアトラス(第1頸椎)レベルで両側の椎骨動脈に内壁の損傷が起こり、損傷部に生じた血餅が引き起こした卒中を病理学的な直接の死因と断定している。 メディアが言う左頚動脈損傷の記載は筆者の記憶に無い。 更に、検死報告書はカイロプラクターの仕業とは一言も記載していない。

倹死官の報告書が出る前から、メディアの問いに答えた米国のカイロプラクティック業界人達は、臨床的死亡事故の統計的確率を述べ、因果関係の上で転倒事故が悪いとか、救急救命医の責任だとかを口にした。 カイロプラクティックに依る死亡事故確率は統計的事実であっても、それでは当該カイロプラクターの非を認めるばかりでなく、カイロプラクティックを危険と宣伝するに等しい。 責任転嫁に至っては、プロフェッショナルの発言としては相応しくない。

メディカルの死亡事故の場合、メディック達が、特定の手術に関わる臨床的死亡事故の統計的確率を述べたり、転倒事故が悪かったとか、カイロプラクターが悪かったなどを凡そ言わない。 メディック達ならば、先ず被害者の死を悔やみ、業界として直ちに該当する手術を自粛し、専門研究機関を介して手順を見直し、安全な手術を提供できるようにすると言うだろう。 だから、カイロプラクティック業界が組織医療より下に見られるのだ。

日本のDC逹数人に意見を訊いてみたら、メディアに答えた米国業界人と同様のことを述べている。 ここに大きな考え違いがある。 仮に厚生労働省の課長補佐とかがその様な発言を聞けば、そんなことを言うならアメリカへ戻ってカイロプラクティックをやってくれと言うだろう。この死亡事故は偶々、米国で起きたが、決定的な死因か否かは今後の検証に委ねるとしても、カイロプラクターの関わりが有ったことに疑問の影の余地も無い。 カイロプラクターにはアジャストすることが仕事だから、アジャストしなければならない気持ちに駆られることは理解できるが、もしもこのカイロプラクターが、ケイティにせめて整形外科にでも検査を勧めていたら、ケイティを救えたかもしれない。

米国業界はケイティの死亡を統計学的な扱いで終えようとしているが、それで良いのだろうか。 況して日本の業界人が、対岸の火事を見て評論家を装うのは大間違いも甚だしい。 総じて「高い、効かない、危ない」が相場と言われる日本のカイロプラクティック業界では死亡事故確率が米国と同じとは言えない筈であるし、ケイティの死因が転倒事故であれアジャストメントであれ、「玉石混淆」の日本業界で、カイロプラクティックの安全性を担保する指導者の立場を期待される者達は相応に考えて振る舞うことを学ぶ機会でなかろうか。


ケイティ・メイ死亡事件①(110号掲載)

昨年10月の国内某女性週刊誌の記事は、米国プレイボーイ誌モデルのケイティ・メイさんが指圧師の治療を受けた後、卒中で死亡したと報じた。 往年のハリウッド女優マリリン・モンローが大阪で浪越徳次郎氏の治療を受けたことはよく知られている一方、指圧が卒中につながるとも考えられず、少しでも情報を得ようとネット検索したら情報に溢れていた。

ケイティ・メイさんが死亡した経緯に関わったのは指圧師ではなくて、カイロプラクターだ。この場合もカイロプラクターが誤訳されて指圧師となったのであるが、知った振りをする者はカイロプラクティックと聞いて指圧の真似をして見せるのと同様に、日本国内に於けるカイロプラクティックの認知度の低さが現れている。ケイティ・メイ事件は大手ニュースメディアMSNBCが全米番組TODAYで取り上げたし、経済誌フォーブズ(FORBES)までが取り上げており、特に後者の電子版記事は事故自体よりも社会的側面に切り込んでいるので、良識有る業界人なら一読して欲しい。

現在、日本の国内報道では、ケイティ・メイさんが撮影の最中に首を捻ったとあるが、米国の報道(MSNBCニュース、FOXニュース)に依ると「撮影中に転倒して…」となっている。 勿論、筆者は知る限りの真実を伝えようとしているのであって、MSNBCやFOXのニュース報道内容に間違いは無いと信じている。 日本国内の報道では「転倒」の言葉が脱落し、これでは状況と経緯の描写に差異が生じて、真実を知る為に報道メディアに頼る業界人と一般国民に誤解を与える。故人のツイートは真実であるが、真実の一部分であり、それだけでは真実の全体像は判らないはずだ。 或いは、日本の国内報道はMSNBCやFOXが先行したニュースの報道内容が間違いと断言できるのだろうか?

調査も不十分なままで兎角センショーナリズムと市場原理に流され、読者数、視聴者数が多ければ真実の歪曲が許されるかの如くだ。馳け離れた例ではあるが、慰安婦問題の場合、国家の威厳と国民の自尊心だけでなく国益までも損なわせたのが一部の報道メディアの愚行であった。太平洋戦争後70年以上も法制化を果たせない微弱な業界を潰しても、国民にとっては失うところの方が多いのではなかろうか。

当初、筆者が得たネット情報に依ると、ケイティ・メイは仕事中の転倒事故で頭部を打ち、救急病院へ行ったが、そこで異常無しと言われてカイロプラクターの治療を受けたのだ。 改善が好ましからず、カイロプラクターの再診を予定しているうちに卒中が起きて救急病院へ行って、還らぬ人となった。 遺族となった娘さんは当該カイロプラクターを訴えないと報じられていた。 然し、最近は、遺族代表になった人物が訴訟を起こすと報じられ、米国内でも情報が錯綜し始めている様子で、実際にケイティ・メイが救急病院へ何度行き、カイロプラクターへ何度行ったのかが曖昧にされていると感じる。

MSNBCとFOXの報道には一貫性があり、撮影現場で転倒事故があったのは間違い無かろう。 転倒事故直後に救急病院へ行ったのかは、現時点で定かでない。 転倒事故から卒中が起きるまでの間に当該カイロプラクターへ行ったことは間違いない。卒中が起きてからCedarSinai救急病院へ行ったことも間違いない。

完全な真実が明らかにされる迄は、許される範囲での仮定法は仕方ない。 当初の報道通りに、転倒事故直後にケイティ・メイが救急病院へ行ったのが事実なら、これが第一の注目点だ。 転倒することは誰でも偶にあるし、状況に依っては頭を打つこともあり得るが、問題は程度だ。 米国人は簡単に病院行きを選ばない。 ケイティが救急病院へ行ったのならば、重篤性を感じて大事をとったのだ。 その救急病院で何が行われたのか、或いは行われなかったのか定かな情報は無いが、異常は見付からなかった様だ。

メディック達は、あからさまな骨折、脱臼、そして癌などの直ちに生命に危険を及ぼす病理を優先して捜すのが常だ。転倒事故直後にケイティ・メイが救急病院へ行ったと想定して、椎骨動脈の損傷が見付かっていなかっても不思議でないかもしれない。 異常は、見付からなかったら無いというものでもなく、タイミングがズレて見付かる場合もある。

次号へ続く…


施術被害増加の現実と先は?(108号掲載)

始まりの終焉か終焉の始まりなのか、最悪のシナリオは既に展開され始めているのかも知れない。カイロプラクティック施術で起きた事故件数の増加傾向を消費者庁が指摘している。国内業界の現状では、カイロプラクティックが補完医療と見做されず、例えばリラクゼーションと云った分野に組み入れられる可能性は存在する。カイロプラクティックを生業とすることに「これまで問題無かったのだから今後も問題無い」と極めて根拠に乏しい演繹論を実しやかに述べる者達は居るが、それでカイロプラクティックと多くの業界人が困らないで居られるのだろうか。問題の焦点は、生業と出来るか如何かでなく、教育や資質と安全性のレベルなのだ。

しかし、本当に「これまで問題無かった」のならば、平成三年厚生省から施術被害防止を意図した通達が出されることもなかっただろう。通達の甲斐も無く事故件数が増加している。全くの無作為ではなかったが、業界は、問題と真摯に直面したのか、寧ろ解決の努力が足りなかったか、解決策を誤ったか、恐らくは全く的外れのことを続けてきたからこそ、消費者被害増加を現実問題として行政から突き付けられているのだ。社会的責任を問われている事態に楽観的で良いとは思えない。

それにも関わらず、「否々、職業選択の自由が保障され、仙台高裁判決が…」と憲法学者でもない者から反論が返ってくるが、時代の流れで社会状況が変化していく中で憲法や高裁判例の解釈が未来永劫変わらない保証こそ無い。「今後も問題無い」なんて絶対に言えない筈だ。既に時代と社会は事業者擁護から消費者保護にシフトしているのが事実だ。非観血無投薬の医療としてのカイロプラクティックを諦めて、リラクゼーション業に甘んじるならば、国民も行政も否定はしないだろうが、勿論、施術事故が減らなければ、医療に格上げされる可能性は非常に低い。

日本では、年々、「カイロプラクター」を称する人達の資質低下が起きているから、施術被害が増加しているのだ。挙句の果ては、カイロプラクティックから勝手に派生して独自の変化を遂げた様な業者も居るみたいで、業界内の混乱が甚だしい。「カイロ」の名は出てもカイロプラクティックか何なのか定かでなければ、国民も困惑する。本来のカイロプラクティックはWHO世界保健機関が認知する医療だが、日本では名ばかりで、次元の違う、似て非なる「カイロプラクティック」が横行している。日本特有の「カイロプラクティック」は、本来のカイロプラクティックを勉強習得してきた者にとって迷惑極まりない。教育内容も資格認定も異なる世界基準に肩を並べようとする自主基準の人達の執念には敬服するが、その執念はカイロプラクティックを正しく学ぶ努力に向けるのが業界にも国民にも好ましい。

本来のカイロプラクティックを学びたいなら法制化された国で学ぶのが良い。外国語で基礎医学を学べば語学力も付く。カイロプラクティックを学ぼうと渡米し、英会話学校で挫折する者も居る現実を知れば、週末セミナーで簡単に習って安易に治療に携わることなど許されないのが解るだろう。厚生労働省が本来のカイロプラクティックを認め始めているからこそ、法制化に臨もうとして省庁代表者がカイロプラクティック法制化準備会議に参加している。そこに整体の文字は無い。業界が纏まることと教育レベル向上の必要性は既に述べてきた。心有るDCならば本来のカイロプラクティックを護る為に立ち上がるべきときだ。 


教育格差が引き起こす問題(107号掲載)

医療過誤の備えに組合や組織から情報を得て、自賠責保険に加入するべきと前号で伝えた。特定の組合や組織、或いは保険を薦める立場ではないから、その様な表現になってしまったが、保険内容と費用は大きく異なってくるので注意が必要だ。

例えば、自転車保険の盗難補償の場合、保険会社にとって採算が合わないほどの盗難件数が増加し、盗難補償の取り扱いを停止した複数の保険会社。これは、資本主義社会の原理であるだろう。カイロプラクティックもこれと同じように有資格者でも無資格者でも標榜する者達に依る事故が多くなれば、保険会社は保険料を上げるか、保険内容を減らすか、取り扱いを止めざるを得なくなる。簡単に言えば、本物ではないコピー商品には保証書が付かない。保険業者にすれば、国内で本物が0.1%以下では採算が合わない。ここで言う保険は、本来ならば医療事故の加害者が損害賠償として被害者へ払う負担金を助けるのが目的だが、一口に保険と言っても施設内での施術以外の保険であったりして、保険を餌にして組合員を募る組織も有るようなので注意が必要である。

カイロプラクティック発祥の地、米国で教育を終え、州免許を取得した正規のカイロプラクターですらアジャストメントを起因とする事故の統計的な数字が残されている。更には、施術者向けの保険や受療者がカイロプラクティック治療を受ける為の保険も存在する。

しかし、日本のカイロプラクティック業界では全く違う。玉石混交と言えば四文字熟語の響きは良いけれど、業界の評価は低く、カイロプラクティックと言えば、「高い、効かない、危ない」と国民は思っているのだ。カイロプラクティック治療の安全性に関して厚生労働省のホームページが受療者の自己責任を主張している事実を、業界人全員が重く受け止めるべきだ。国内カイロプラクティック業界の問題は教育格差があり、危険な業者が生産され続けるメカニズムが存在する。カイロプラクターの基準が定まっても、都合の良い拡大解釈で資格基準の幅を拡げている状態が助長されており、事故が増えて保険会社が退くのも当然のことであり、カイロプラクティックの認知度が上がる訳も無い。

国内業界の教育格差、或いは知識と技能の格差が解消される為には、日本国憲法と裁判例だけで支えられている国内業界の底上げが必要だ。それは安全教育を受ければ国際基準とかカイロプラクティック標準化コース(CSC)を受ければ国際容認基準といった話ではないはずだ。

ちなみに安全教育に関しては、某DC組織が業界底辺層の知識と技能の引き上げを目的とした教育活動に携わっていた。履修すれば国際基準として認めるといったわけでもなかったが、世界カイロプラクティック連合を巻き込んでの出来事だった。以来、現在も法制化は成就されず、禁止されるべき素人相手の短期教育も未だに野放しのままで、カイロプラクティックの安全性が問われている。

業界に法制化の強い動きが有った頃なら未だしも、そもそも法制化後の法的処置であるCSC(カイロプラクティック標準化コース)をコンヴァージョンプログラムと呼んで何人の履修者を出そうと、遅々として進まぬ法制化の前に行い続けることは「馬車の後に馬を繋ぐ」に等しく、道義的問題だ。CSC導入を持ち掛けてきた人物からCSCプログラムが如何に優れているかは聞いたが、日本に於ける法制化に関わる話は一度も無かった。 

日本国民が抱く安心と安全への希望は満たされねばならない。よって、国外の良いところは積極的に取り入れるところだが、国外の権威を以ってしても国内業界に抜本的な改善が今は何ら感じられない。話を保険に戻せば、最善の保険は施術者が常に医療事故発生の可能性を最小限に留める最大限の配慮と努力に集約される。その為には、医療家として患者の安全を第一に尊ぶ倫理観を持ち、危機意識を研ぎ澄まさねばならないし、国民が求める安全性の向上の為に業界全体が知識と技能のレベルアップに努めるべきだ。


カイロプラクティック短期コースの落とし穴(106号掲載)

カイロプラクティックに於いても事故が発生することがある。米国での統計では100万回のアジャストに1回の確率で事故が発生すると言われている。正規のDC教育課程の履修を終えて州開業免許試験に合格した者達が十分の危機管理の基に行う治療ですらもカイロプラクティックに起因する事故や医療過誤は皆無ではないのだ。

日本にはカイロプラクティックを生業とする人達が6万人も存在し、国内業界を構成する内訳は有資格者が4割と無資格者が6割と言われている。ここで言う有資格者とは、柔道整復師や鍼灸師などの国家資格を所持する手技療法者を指す。 国内に於ける事故、或いは医療過誤はどうであろうか? 示談で治まるケース、保険扱いになるケース、そして国民生活センターへ報告されるケースが有り、泣き寝入りのケースも有る。 

では、誰が事故を起こすのだろうか?単純に考えれば、無資格者=低知識低技能の方程式が成り立つだろうから、無資格者が多くの事故を起こしていると推測されるところだが、その推測とは逆に、某大手新聞の調査では、有資格者による事故件数が6割、無資格者による事故件数が4割となっている。有資格者グループが無資格者グループより1.5倍多くの事故を起こしているのが事実なのだ。

有資格者とは言っても、教育資質はどうなのだろう? 例えば、柔道整復師の教育課程にもかなりの差が有るのだ。 近年の規制緩和の結果、柔道整復師や鍼灸師の専門学校が増加し、生き残り策として、法が許す範囲の短時間で国家試験に合格する為だけの知識と技能を与えることで、潜在的需要に応える国家試験予備校の様な学校業者も存在する。

この場合、卒業生が国家試験に合格した国家資格所持者でも、柔道整復師として独立経営権を得ただけであって、国民の健康維持増進に必要な知識と技能は乏しいと感じざるを得ない。中には特定の骨折に対するギブスの仕方すら習ってないと言う有資格者が居ることに驚かされる。更には、柔道整復師や鍼灸師の専門学校が増加したことで必然的に有資格者人口も増加。今では整骨院・鍼灸院の数が喫茶店やコンビニよりも多く、競合業者への差別化として、カイロプラクティックのテクニックの週末セミナーに参加し、「ワン・コイン・カイロ」や「おまけカイロ」などを「売り」にする業者までもが増加し、それらに参加する有資格者が存在する。治療の質の低下や国民健康保険の誤用が疑わしい。 

現実に無資格者が携われるのでカイロプラクティックは簡単と考える人達は多いようだが、どの程度しっかりと基礎科学や基礎医学などを学んだかも判断できない人にカイロプラクティックのテクニックだけを教えたところで、まともなカイロプラクターが育つ可能性は低いと思われる。簡単に見えることこそ頻繁に熟練の技能の産物であり、短期に何かを習得するには相応の素地素養が要求される。

カイロプラクティックを試みた柔道整復師が、患者の腰椎横突起を骨折させたことで近年の話題に上がった。恐らく、基礎解剖学もコンタクトも押圧の加減すら考えず、形だけの真似事が行われたに違いない。患者の安全への配慮が欠落しているのは明らかだ。

勿論、柔道整復師や鍼灸師などの有資格者の業界や行政への非難ではなくて、受療者国民の安心と安全を図ろうとしていることは、賢明な読者なら直ぐに御理解頂けると思う。多少なりとも善後策に付いて述べたい。自信過剰や怖さ知らずからか、有資格者でも自賠責保険に入ってない人が多く、カイロプラクティック治療家の数は増加しているのに組合加入者と保険加入者の数は減少している。まずは医療過誤の備えを優先し、組合や組織に加入して少しでも正確な情報を得たほうが良い。

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