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世界で活躍するDC
- 伝えたいこと(126号掲載)
- カイロプラクターへの道(124号掲載)
- 世界最強のアスリートに通用すれば世界一(122号掲載)
- Endless Vacation(119号掲載)
- 生涯学習(118号掲載)
- これまでの足跡(117号掲載)
- カイロプラクティックを通じて(116号掲載)
- カイロプラクティックの可能性(115号掲載)
- この世界で生き残る②Do the Right Thing(114号掲載)
- アメリカでの雇用(113号掲載)
伝えたいこと
新井直澄DC
世界で活躍するカイロプラクターを紹介するということで、私の知っているアメリカで実際にクリニックを開業されて成功されている先生たちをシリーズで何人か紹介させていただきました。他にも私の知る限り、まだまだ何人も日本人の先生がアメリカで開業し成功されています。
こちらで開業され成功されている日本人の先生は、アメリカ人の先生たちに比べ、勉強熱心で自己研鑽を積んでおられる先生が多いイメージです。ですから異国である米国でも成功されているのだと思います。
一方、残念ながら、アメリカのカイロプラクティックは様々な要因が重なり業界が徐々に厳しくなっているように感じます。20年以上前、私がこちらで学生をやっていた頃はカイロプラクティックが全盛期で、どこのカイロプラクティック大学も学生がたくさんいたました。20年ほど前までは、それなりの保険診療報酬ももらえていたので、稼げる職業として多くの人がカイロプラクターになることを選択していたのです。ですが最近は、保険診療報酬が激減して、保険診療でオフィスを成り立たせるのは大変になっています。そうした事情で、カイロプラクターはもはや稼げる職業ではなくなってしまい、かつてと比べると、カイロプラクティック大学の学生はかなり減ってしまっているようです。アメリカの大学の学費、生活費の高騰も重なり、日本からの留学生もまた激減しており、全米のカイロプラクティックの大学で日本人留学生はほとんどいない状況となっているようです。
よく、カイロプラクティックは20%の良いドクターに80%の患者さんが集まり、残りの80%のドクターに残りの20%の患者さんが集まると言います。アメリカも日本の柔整のように、現金診療でないと大変になってきており、保険診療に頼り患者さんを本当に治す治療を追求してこなかったアメリカ人の先生たちは、かなりの確率でカイロプラクターをやめていっています。
ガンステッド、グッドハート、ディジャネット、トンプソンなど神の領域の先人のカイロプラクターたちから、直接学んだ第二世代のカイロプラクターの先生たちも高齢化で、次第に彼らの素晴らしい技術、知識を伝承してくれる機会が減っています。そして、その下の世代であるそれ以降のアメリカのカイロプラクターは、残念ながら自分の技術、知識を磨くことよりもお金儲けに走ってしまい、業界全体の評判も下げてしまっているという悪い循環が起きているのがアメリカの現状です。
私は、2018年にAKのBoard Certified Teacherとなり、そのおかげで世界中のAKを教えている先生たちとメーリングリストでつながるようになりました。そこで実感するのですが、最近はヨーロッパやオーストラリアなどのカイロプラクターの先生たちから、新しい情報が発信されることが多く、色々勉強になります。その傾向は他のテクニックでも起きているとあちこちで耳にすることが多いです。コロナ前、あるセミナーで、偶然昔のカイロプラクティック大学の同級生と20年ぶりに再会したのですが、彼も卒業後、オランダで長期間治療活動をしていました。彼曰く、ヨーロッパの方がアメリカよりも従来の西洋医学でない医療に対しての理解が深く、カイロプラクティックの治療に対してもリスペクトがあり、効果的な治療であれば普通に現金治療で患者さんがたくさん来ていると言っていました。そうした土壌があるので、ヨーロッパのカイロプラターは治療技術や知識の向上心も強く、学ぶにも環境が良いとのことです。
私は、日本のカイロプラクターも、もはやアメリカ第一主義から脱却すべきではないかと思っています。アメリカに残っている日本人の先生たちが、アメリカ人に比べて異国アメリカでも成功しているのは、我々日本人が本質的に勤勉で治療に対しても貪欲に追求していく姿勢を持っているからだと思っています。このコーナーで紹介した先生たちもまた、使っているテクニックや治療法はそれぞれ異なりますが、皆患者さんを良くすることに対して、それぞれのやり方で貪欲に自己研鑽を積み重ねてこちらで成功を収めているのです。
未だにカイロプラクター同士で、自分と異なる治療法の先生を批判したりすることを耳にしますが、大抵の場合、相手を批判する人はその批判した技術について表面的にしか理解していません。世の中である程度有名になっている治療法は、有名になるだけの理由があり、それを極めた人からは学ぶことこそあれ、批判する理由が見当たりません。
アメリカのカイロプラクティック大学のD.C.プログラムは、過激な言い方をすれば、最低限の医師としての知識を身につける場であって、患者さんをどう効果的に治療するかを教えてはくれません。医療全般そうですが、良いカイロプラクターになるにも、卒後にこそ勉強と経験を積み重ねてゆくことこそが地道ですが、一番大事なことだと思います。だからせっかくD.C.という学位だけを時間とお金をかけて取得しても、その後の最も大事な経験を積む時期に学びを止めてしまい、それが最近アメリカでは、カイロプラクティックで生きていけない先生が後を絶たない理由なのかと思います。
日本には高い技術、知識そして経験を持った先生がたくさんいます。日本もこれからはヨーロッパやオーストラリアのように、そろそろアメリカのカイロプラクティック植民地から脱却すべき時だと思います。私は世界のレベルで通用する高い技術や知識を持った日本人の先生がたくさんいると思います。日本の先生は世界に対してもっと自信をもって良いのではないでしょうか。英語のハンデはありますが、それでもたくさんの日本人の先生たちは、世界のカイロプラクティック業界で活躍できる高いレベルにあると思っていますし、そうした日本人の高いレベルを世界に向けて、今後は発信できたら良いですし、いつか私も力になれればと思う今日この頃です。
カイロプラクターへの道
岡崎道弘DC
先日、オレンジカウンティで開業されている新井直澄DCより久しぶりに連絡をいただいた。6、7年ぶりであろうか、最後にお会いしたのは彼の結婚式だったと記憶している。カイロタイムズwebコラムへの執筆依頼であった。普段より同業者との交流が少ない私にとって、旧友からの突然の連絡はとても嬉しかった。ただ、執筆経験の乏しい私が、この依頼を引き受けるのを躊躇したのは言うまでもない。それでも、今回限りと承諾したのは、過去のカイロタイムズ連載記事に目を通し、同僚の先生方のカイロプラクティックへの熱い念いを読み返す中で、今一度、自らのカイロプラクター人生を振り返ってみる良い機会になるのではないかと思ったからである。
1984年、私が高校3年生の夏に、ロサンゼルスで初の商業化されたオリンピックが開催された。開会式ではロケットマンが飛び、カールルイスを筆頭に、米国代表の選手が大活躍をした大会でもあった。当時陸上競技に没頭していた私にとって、アメリカという国はとてつもなく偉大で、心底より憧れを抱いていた。米国でのアスリートの社会的地位や認知度の高さを目の当たりにするにつけ、スポーツ医学を含めた業界全体が世界の最先端を走っていることは、当時の私にも容易に理解することができた。大学進学を目前にして、将来何をしたいのかを模索していた正にその時の出来事である。初めて、アスリートと一生涯関わっていける仕事につきたいと願ったあの日のことを、今でも決して忘れることはない。アメリカ留学を決意した人生のターニングポイントとなった瞬間でもあった。
18歳で渡米し、カリフォルニア州のPepperdine大学で学士号を取得した後、物理療法士やアスレチックトレーナーへの道に進むという選択肢もあったのだが、結局地元のL A C Cへの進学を決めた。ドクターとして診断権が与えられているD Cが、当時最も都合の良い職業に思えたからである。本当に単純な動機であった。現在、世界で活躍されている多くの日本人D Cが、強い意志と使命感を持って留学を決意されたことを考えると、全くもって情けないの一言である。カイロプラクティックの治療すら受けたことのない、その本当の魅力を実体験したことのない私の大学生活はこうして始まったのである。L A C C在学中は、成績優秀者として卒業することを第一目標として定めていたため、頭脳明瞭ではない私は、常にクラスの最前列に陣取って、とにかく必死に勉強をした。与えられたプログラムをひとつひとつ着実にこなし、そして、当初の目的を達成し、優秀な成績を修めて無事に卒業をすることが出来たのである。
ただ、これが私のD C人生の船出を苦難にすることなど、当時は全くもって知る由はなかった。
L A C Cは医学至上主義色の濃い教育をすることで知られており、カイロプラクティック哲学を叩き込まれるというよりは、科学的なデータを最優先として、いかにメインストリームであるアロパシー医学と共立していくかを重要なプログラムの柱としていたように感じる。そのような校風で全てを吸収した私が、カイロプラクターとしての自信を喪失するのには大した時間はかからなかったのである。米国医師会から、カイロプラクティックをバッシングされれば心が揺れ、治療前の同意説明文書への署名を患者様にお願いする際に、頚椎への矯正が脳卒中を引き起こす原因になり得るとの説明をした後に断られ、凹んでしまうことも常であった。カイロプラクティック哲学が欠如していたが故に、自らの職業に対する自信や信頼が全く無かったのである。イネイトインテリジェンスという万能な自己治癒力を最大限に働かせる手段として、我々はアジャストを施すのであって、この神秘的で且つとてもパワフルな治療ができるのはカイロプラクターのみであるという絶対的な真実は、つまり普遍的な真理でもあることを腑に落とすまでに至らなかったのである。
日々新たな研究結果が発表され、昨日の常識は今日の非常識ともなりうる、目まぐるしく移り変わる現代医学の流れの中で、決して変わらないものへの強い信心が欠乏していたことに気づかせてくださったのが、卒業後、勤務医として雇って下さった岡井D Cであった。
岡井DCとの出会いは、パーマーウエストというカイロ大学に当時通っていた新井DCの紹介で、サンフランシスコ郊外にある岡井クリニックを訪問したことがきっかけである。DCを取得後、就職先を探していた私が、南カリフォルニア以外で尋ねた唯一のオフィスであった。その際、岡井DCから受けた腰椎へのアジャストの衝撃は、今でも鮮明に覚えている。今まで受けてきたアジャストとはいったい何だったのだろう。これが本物のカイロプラクティックなのか。と、愕然とした。後に、岡井DCから雇用のお話をいただいたことが、なんとも運命的であり、且つ私の人生第二のターニングポイントだったといっても過言ではない。
岡井クリニックでは、カイロプラクティック哲学を徹底的に叩き込まれた。とはいっても、彼から直接的に講義を受けたわけではない。岡井DCは、質問には答えてくれたが、後は背中を見て学べというスタンスである。脊椎を正しいベクトルに、必要な強さで、尚且つ正確にアジャストすることこそ、一流のカイロプラクターになるための基本中の基本であることを学んだ。むしろ、このような一寸の狂いのないアジャストができてこそ、本来のカイロプラクティックの成果が得られるのであるが、技術の修得は容易ではない。日々40人を超える患者をエネルギッシュに、そして正確に治療されていく彼の後ろ姿から、言葉を超えた数多くのメッセージをいただいた。クリニックでの4年半の歳月で、カイロプラクターとして独り立ちできる基礎を学ばせていただけたことに心より感謝している。
念願の独立開業は2004年の3月であった。私のクリニックは、カリフォルニア州サンディエゴというアメリカ最南西にあり、メキシコとの国境に位置する。年間を通して降雨量の最も少ないリゾート地である。そして旧U Sオリンピックトレーニングセンターのある、アスリートトレーニングのメッカでもある。そのような恵まれた環境の中での過去17年間のプラクティスを振り返ると、幸運にも数多くのトップアスリートたちとのご縁を、カイロプラクティックを通して与えていただいた。M L B、U F C、P G A、そして世界各国のオリンピックアスリートの選手たちを治療させていただけるようになり、36年前に想い願った夢が現実のものとなっている。まだまだ治療家として未熟者ではあるが、カイロプラクティックを知れば知るほど、その奥の深さに大変魅了させられるのである。科学至上主義と言われる唯物的、そして物質主義的な現代を生きていると、数字だけに囚われるようになり、科学的に証明出来ないことは正しくないという風潮に流される。ただ、カイロプラクティックを生業とする者にとって、このような次元に止まっていると、成長できなくなると強く感じるのである。カイロプラクティックとは、現代医学では未だ解明できない超科学的で、とても神秘的な、よりスピリチュアルに近い医学であると確信している。先人たちの残してくれたこの素晴らしい医療を、今後も途絶えることなく皆様と共に継承していく一人となりたいと心より熱望する。
世界最強のアスリートに通用すれば世界一
仲野広倫DC
アメリカでカイロプラクティックを学び、様々な先生に会い、セミナーに通いましたが、結局一つのテクニック・治療法では、全てに対応などないのではと思うようになりました。おそらく日本でカイロプラクティックを学ぶ方たちも、きっと私と同じことを考えて日々学んでいらっしゃると思います。より良い結果を出すには何が必要か?目の前の患者さんに最良の治療法は何か?それを求める毎日だと思います。むしろ国家資格がなく、保険が使えない日本だからこそ、よりテクニック、治療結果を求めることは当然の結果でしょう。日本で整体、カイロなどの手技療法を行う方は、アメリカの一般的なカイロや日本の接骨院のように、保険に頼った経営はできないのです。そういった点ではアメリカ以上に即効性、目の前の治療効果を求めるはずなのです。アメリカのDCのようにライセンスで差別化できないですし、取り仕切る団体、機関もないので、競争相手は無限に増え続け、競争は激しくなる一方です。他との差別化を、様々な角度から要求される厳しい状況と言わざるを得ないでしょう。私自身もそんな日本での臨床を経験しましたので、海外のDCや日本の国家資格くらいでは、差別化できなくなった日本の情勢はとても良くわかっているつもりです。そんな状況を目の当たりにしたので、とにかく最高の筋肉骨格系治療を、日本の家族のクリニックへ持ち帰ろうと渡米しました。しかしながら、テクニックをどれだけ学んでも結局『そんなに良い方法ならなぜ医療の現場で主流にならないのか?』の問いに答えがでないのです。自分の行なってきた薬、注射、手術以外の方法で筋肉骨格系を治療する医療は最高で、最高の結果を出すと信じているにも関わらず、です。
そもそも本来医療を行うのは病院であり、そのシステムで全てが完璧に機能していれば他には何もいらないはずなのです。しかしながら、アメリカでも日本でも病院の医療以外のカイロ、整体、鍼灸など様々な医療が存在します。どこの国でも病院の医療が完璧でないことは、特に説明する必要はないと思います。ただ、サプリメントの効能が高ければ、処方箋の薬として認められるのと同様に、素晴らしい結果がでれば、メインストリーム(主役の)医療と置き換わらないとしても、仲間入りするはずなのです。一部の病院でDCは仕事をしていますが、これは少数派でとてもアメリカ全体の医療において影響を与えているとは言えません。
そんな中で、この納得いかない状況をなんとかしたいと学んだのがカイロプラクティックの哲学でした。『なぜそれを行うのか?』『自分の仕事は何なのか?』『そもそもカイロプラクティックとは?』『医療は?健康とは?』などなど自問自答した時には、これが答えかと思ったほど衝撃的でした。ガンステッドセミナーでも、テクニックよりもこの哲学クラスが好きだったほどです。実にシンプルで分かりやすく、全ての臨床、健康、生き方に答えを出してくれるような気持ちさえ覚えました。『カイロプラクターの仕事はサブラクセーションをアジャストすることであり、それ以上でも以下でもない』こんなことを教えてくださったDCはカッコよくて陶酔しましたが、しばらく考えて、単純にそれは自分の求める医療でなく、それ以上のことをしたいと思ってしまいました。理由は、カイロ哲学も医療の現場でメインストリームにはなれないのです。残念ながらサブラクセーションでは、すべての健康のすべての解決にはならず、主流の医療にはならないのです。多くのDCに話を聞き、セミナーに出席しながらも、そんな煮え切らない想いをさらに抱えていた頃、まさに青天の霹靂といえる、私の人生を変える大事件が起こりました。なんとアメリカのオリンピックチームに、スポーツカイロのDCたちが正式に関わりだしたのです。さらに関わるだけではなく、その後は地位を伸ばし、トップの主任まで任されるようになりました。現在もアメリカのオリンピックセンター4箇所全てに、スポーツカイロの専門が、アスリートの診療を行なっています。これが私にとっては大事件で、まさに自分の信じた薬、手術、注射以外で行う診療が、世界最強のアスリート集団、また世界トップの医療機関に認められたと思えた瞬間でした。『やっぱりメインストリーム(主流)で通じるじゃないか』。『自分の信じた医療は世界の頂点に通用する』と確信に変わりました。しかも、このドクターたちのほとんどが私の大学の卒業生で、私と同じ教育を受けたDCたちが成し遂げたと聞けば、自分もできると思うのは当然です。サーフィンが好きで選んだ、テクニック欠落大学でしたが、心のそこから感謝した瞬間でした。アメリカのトップアスリートの健康を預かる施設で、スポーツカイロが指揮をとり、周りの整形外科、内科、スポーツ医学、それぞれの専門分野と連携をとっての医療を行うという、私にとって長年の疑問にはっきりとした答えがみえてきたので、その後は『世界最強アメリカオリンピックチームに通じれば、誰にでも通じる』を信念に、徹底的にスポーツ医学を学ぶことにしたのです。それから数年後、とあるスポーツカイロのセミナーでジョージア州、アトランタのホテルで朝食べながらニュースを見ていると『2020年オリンピックは東京に決定』のニュースが流れました。偶然にも隣の席では、オリンピックセンターの医療を取り仕切るドクターが食事中で、自らの実力を試す決意をした瞬間でした。
Endless Vacation(119号掲載)
石谷三佳DC
アイオワ州パーマーカイロプラクティック大学(以下、パーマー大)を卒業して、早20年が経ちます。現在は、ニュージャージー州フォートリー市で石谷ヘルスセンターとして開業しています。
これまで私を支えてくれた両親、学校や先輩の先生方、そして、私を信頼して来てくださる患者様に心より感謝の気持ちでいっぱいです。
日本で大学在籍中に、アメリカにおけるカイロプラクティックの存在を知りました。私は、健康で元気な子供でしたが、小学校5年生のとき、鉄棒から転落。その後、肩こりと頭痛を発生するようになり、放課後は、急いで家に帰り母に肩を揉んでもらうほどでした。大学時代に初めてカイロプラクティックの施術を受けた時から、この世界に引き込まれ、日本で開業されているDCの先生に会いに行き、また、資料で調べたりすることで没頭していきました。
パーマー大を卒業して初めての仕事では、怒られっぱなしで、社会人として自分はやっていけるのか悩み、月給20万以下での生活で今後、自分が学んだことを活かせる日が来るのかと落胆した時期もありました。勤務医として4年目、自立しようと決めた時、ある素晴らしい先生に出会いました。その先生は、「カイロプラクターを続けていくこはエンドレスバケーションの始まりだよ」と言いました。当時の私はその意味が良く理解できていませんでしたが、強く心に残りました。
開業するにあたり、約一年間、その場所が自分に合っている場所なのか、経営的にも成り立つ場所なのか細かくリサーチをして、3000軒の家や近郊の店を回り自己紹介をしました。そのおかげか、開業は好調な滑り出し。診療日は週6日、当初は朝8時半から夜7時までの診療時間でしたが、私のモットーは、「患者さんのためにできることをする」なので、早朝来られたい方のために、朝は7時、夜は8時までと診療時間を引き延ばしていきました。ほぼ毎日14時間勤務。体は疲れたとしても、人を助けられる喜びの充実感で毎日が楽しみです。
20年経った今、16年前の恩師の先生の言葉が良く理解できます。「Endless Vacation」とは、毎日がバケーションのように、ワクワクと幸せを実感して過ごすことです。多くの方にカイロプラクティックを伝えられる事、それを通して、生きる喜びと健康であり続けられる価値を見出してほしいと願い、また、それが自分の使命と思い、これからもできることをしていきたいと感じています。
生涯学習(118号掲載)
鴨志田直紀DC
高校まではサッカー漬けの毎日を送り、その後に父が運営していた日本カイロプラクティックカレッジと父のオフィスでカイロプラクティックを学びました。卒業後は父の手助けもあり自分のオフィスを持つことができ、また東京療術学院及び母校でテクニックを教えさせていただける機会も与えられました。親の七光りというやつですね(笑)。ぬるま湯に浸かりすぎてしまい、足の指がふやけそうになったのでアメリカ行きを決意。
ここでも両親と懇意にさせていただいていた当時の患者さんの経済的支援のおかげで遊学もとい留学することができました。
アメリカに来てからカイロプラクティックの大学に入るまでにはサンフランシスコの岡井先生に気にかけていただき、サンクスギビングやクリスマスのディナーに招待していただきました。前号のこちらのコラムで登場した甲山先生からはカイロプラクティック大学に入る直前にご連絡をいただき、入学に際して奨学金などのアドバイスをいただいたり、また在学中1学年上の藤村先生には、学校の勉強だけでなく私生活でも夫婦共々お世話になりました。卒業後は在学中にインターンをさせていただいていた吉澤先生のオフィスで、就労ビザをサポートしていただきながら働かせていただきました。私の力不足でほとんどお役には立てれず、働いていたというよりかは勉強させて以前からアメリカに興味があった私は、高校卒業後に留学生として渡米し、短大工学部に通っていました。当時マッキントッシュに初期型が出てきて世間が賑わっている中、なぜかそれほどコンピュータに興味がない自分には、ひょっとしたら工学系は向いていないのではないかと、この先の勉強に不安を感じていました。留学生として英語での勉強は相当大変で、本気で好きなことでなければ継続できないと思っていたからです。州立大学に編入する前に、一生続けられる仕事とは何かを真剣に考えた結果、中学高校とお世話になっていた整骨院の先生のことを思い出しました。私は中学、高校とテニス部で毎日何時間も練習をしていたので怪我をすることも多く、その度に先生に治療をしてもらっていました。
こうしてカイロプラクターになる決意をした私は、在学中はとにかく単位を落とさないよう必死に勉強していました。長い授業時間、なじみのない英語の医学用語、レポートの提出など本当に慣れるまでは大変でした。アメリカのカイロプラクティックの学校の一番の特色は、ホルマリン漬けの死体を1年かけて解剖して、人体の基礎を学ぶということではないでしょうか。解剖学を夢中になって勉強していたことを覚えています。
インターンを経て、2001年にカイロプラクティックの免許を習得しクリニックに就職しました。様々な人種の骨格などの違いを感じながら毎日一生懸命治療をしていましたが、一年も経たないうちに自分の治療に限界を感じはじめました。もっと痛みだけではなく、内科的にも患者さんの健康をサポートしたいと思うようになり、鍼の大学に行くことにしました。幸いカイロプラクティックの大学で取った単位を鍼の学校にトランスファー出来るという事で4年のところを3年で卒業できるということでした。妹が日本で鍼灸の資格を持っていたので、日本の鍼灸の本を多々送ってもらい、その奥深さに感動すら覚え、ますます鍼灸の世界に昏倒していきました。こうして、2004年に鍼灸のカリフォルニア州免許を習得しました。
2006年、ロサンゼルスで自分のオフィスを開業した後も、以前から興味のあったアプライドキネシオロジーのコースを受講しました。そこで出会った先生がたは、長年のキャリアを積んで豊富な知識を持っているにも関わらず、さらに学ぼうと情熱がある先生ばかりでした。日々自分の技術を向上させようと努力している先生がたを見て、私自身も良い刺激になりました。鍼とカイロプラクティックを同時に施術すると相乗効果のようなものを得られるように感じます。ですがそれを活かすには両方の分野について、より確かな技術と知識が必要に思えます。アメリカではカイロプラクティックや鍼灸の免許資格を更新する際に、講習を受けなければならないのですが、私自身も生涯学習として今後も勉強し続けていきたいと思っています。
いただいていたのが実状でした。
その後、現在の勤務先である新井先生のオフィスに移り、働ける環境を提供していただくだけでなく、たくさんの事を学ばせていただいています。ここには書ききれませんでしたが、カイロプラクティックを通して、日本とアメリカで多くの素晴らしい方々に出会えたことは私の財産です。アメリカへ行かなければ、こんなに貴重な経験は出来なかったでしょう。
ここまでの足跡を辿ると、ただただ感謝するばかりです。最後になりましたが、私がまだ学生の時分に英語も上手に話せない中で、アルバイトを3つも掛け持ちし、精神的にも経済的にも支えてくれ、また今でも毎日お弁当を作ってくれ、大変なときには励まし良き相談役でいてくれる妻に、最大級の感謝を送りたいと思います。
これまでの足跡(117号掲載)
須藤陽次郎DC
高校まではサッカー漬けの毎日を送り、その後に父が運営していた日本カイロプラクティックカレッジと父のオフィスでカイロプラクティックを学びました。卒業後は父の手助けもあり自分のオフィスを持つことができ、また東京療術学院及び母校でテクニックを教えさせていただける機会も与えられました。親の七光りというやつですね(笑)。ぬるま湯に浸かりすぎてしまい、足の指がふやけそうになったのでアメリカ行きを決意。
ここでも両親と懇意にさせていただいていた当時の患者さんの経済的支援のおかげで遊学もとい留学することができました。
アメリカに来てからカイロプラクティックの大学に入るまでにはサンフランシスコの岡井先生に気にかけていただき、サンクスギビングやクリスマスのディナーに招待していただきました。前号のこちらのコラムで登場した甲山先生からはカイロプラクティック大学に入る直前にご連絡をいただき、入学に際して奨学金などのアドバイスをいただいたり、また在学中1学年上の藤村先生には、学校の勉強だけでなく私生活でも夫婦共々お世話になりました。卒業後は在学中にインターンをさせていただいていた吉澤先生のオフィスで、就労ビザをサポートしていただきながら働かせていただきました。私の力不足でほとんどお役には立てれず、働いていたというよりかは勉強させていただいていたのが実状でした。
その後、現在の勤務先である新井先生のオフィスに移り、働ける環境を提供していただくだけでなく、たくさんの事を学ばせていただいています。ここには書ききれませんでしたが、カイロプラクティックを通して、日本とアメリカで多くの素晴らしい方々に出会えたことは私の財産です。アメリカへ行かなければ、こんなに貴重な経験は出来なかったでしょう。
ここまでの足跡を辿ると、ただただ感謝するばかりです。最後になりましたが、私がまだ学生の時分に英語も上手に話せない中で、アルバイトを3つも掛け持ちし、精神的にも経済的にも支えてくれ、また今でも毎日お弁当を作ってくれ、大変なときには励まし良き相談役でいてくれる妻に、最大級の感謝を送りたいと思います。
カイロプラクティックを通じて(116号掲載)
甲山泰成DC
柔道整復師として日本で働いていた私は当時いろいろなテクニックを模索していました。ネットがまだそれほど普及しておらず、カイロプラクティックの情報を得るのも苦労したのを覚えています。柔整師会主催のセミナーにも参加したのですが、基礎知識がなかったためかそれほど理解できませんでした。もともと学生時代からアメリカ留学をいつかはしてみたいと思っていたのもあり、勉強するなら本場アメリカでカイロプラクティックを学ぼうと2000年に渡米しました。カイロプラクティック大学は予想していた通り大変なものでしたが、私の場合30代前半でカイロプラクティック大学へ入学したこともあり、後がないという切迫感があったので周りの若い学生達と比べてモチベーションは高かったと思います。
大学を卒業した時点ですぐに患者さんを治療できるほどの技術を、在学中に身につけるということが目標でした。週末はできるだけ多くのセミナーを受けるようにして、自分のやりたいテクニックを探していました。そんな中出会ったのが日本人DCの先生方です。中には日本からアメリカのセミナーへ勉強されに来られていたカイロプラクターの先生もおられました。異国の地で日本人同士ということもあり、親切にたくさんの事を教えていただきました。テクニックだけではなく哲学や理念、時には人生観なども。日本人の先生方はとても知識量が豊富で勉強熱心で、技術も素晴らしいものをお持ちでした。学生ながらこういう先生に自分もなろう!と希望に胸膨らませました。
2012年にLos Angelesで開業して驚いたことは、多くの患者さんが日本人カイロプラクターをわざわざ探して来院されるということです。もちろん人種は多種多様です。日本文化や日本という国が世界に認められていることもあるのでしょう。しかしここアメリカで今まで数多くの日本人カイロプラクターが、日本人としての人間力、技術力そしてホスピタリティーをもって治療され、地域の人々に喜ばれてきたことは想像するに及びません。まさかこういった形で先人の先生方から恩恵を受け感謝するとは思わなかったのです。私も一人のカイロプラクターとして切磋琢磨し、また次の世代に良いバトンタッチが出来るよう、日々努力していきたいと思います。
甲山 泰成D.C.
柔道整復師として働いていた際、当時の同僚より中川貴雄D.Cの本を紹介されカイロプラクティックに出会う。その後カイロプラクティックを学ぶため2000年に渡米。
Southern California University of Health Sciences (LACC)卒業、Doctor of Chiropractic (D.C.)を取得。
2011年よりBEST Chiropractic Clinic Costa Mesaに勤務し、2012年よりロスアンゼルスのカルバーシティーで開業。
ICAK(Applied Kinesiology)公認カイロプラクター。
カイロプラクティックの可能性(115号掲載)
木川知恵DC
「アスレチックトレーナーとして生き残っていくにはカイロプラクティックを学んだほうが良い。本場はアメリカ。行けるなら行きなさい」。日本で鍼灸学校を卒業し、その当時、興味があったアスレチックトレーナーへの道を模索している時にDCの先生に受けたアドバイスがきっかけで2004年に渡米しました。カイロプラクティック大学卒業後、在学中のインターンシップからお世話になっていたDr. Arai D.C. DIBAK CCSPの下でビザのサポートをしていただきながら働きました。カイロプラクティック大学在学中に私がかじる程度にしか知らなかった様々なテクニックを、クリニックの先生達は実際の治療で使い、そしてきっちりと結果を出していく。働き始めてから、カイロプラクティック治療の力と可能性を実際に目の当たりにして、なんと奥が深い治療なんだ、そして人間の自己治癒力の助けが出来る治療なんだ、と圧倒されました。
様々なテクニックを学んでいく中で、NAETというアレルギー除去療法に出会いました。カイロプラクティックの刺激と東洋医学(鍼灸)を使い、体に合わない物・事への過敏を除去していく。なんとも不思議な治療法だと思いましたが、初めてNAETセミナーを受けた時には「何でも治せる魔法の杖を見つけたかもしれない」と衝撃を受けました。体に合わない物・アレルゲンを見つける方法はキネシオロジーでの筋肉反応検査を使います。治療はとてもシンプルで、背骨に沿って刺激を入れていくことと、数箇所のつぼへの刺激を入れること。これで実際に体が変わっていくので、神経系への刺激からの自己治癒力は未知数なんだと感じています。カイロプラクティックを通して見える医療の可能性は、まだまだあると信じています。
現在は、最初にカイロプラクターを志した道とは少し違う道を歩んでいますが、自分が「これだ!」と思える治療法に出会え、それを使いながら診療し、患者さんの体調改善へのお手伝いが出来ていることがとても幸せです。2012年9月に独立して早6年。自分の好きな事が仕事になっている、という幸せと感謝を忘れずに日々精進していけたらと思っています。
NAETの日本語サイト: http://naetjapan.com/
木川 知恵 D.C.(きがわ ちえ)
日本体育大学在学中、バスケットボール部とトレーナー研究会に所属しアスレチックトレーナーを目指す。
大学卒業後、早稲田医療専門学校に進学、鍼灸師の資格を取得。
鍼灸学校の特別授業でカイロプラクティックと鍼灸を合わせた治療方法を学び、カイロプラクティックを本格的に学ぶことを決意。鍼灸師・アスレチックトレーナーとして日本で数年臨床経験を積んだ後、2004年に渡米。
Southern California University of Health Sciences (LACC) を卒業、Doctor of Chiropractic (D.C.)を取得。
2009年4月からBEST Chiropractic Clinic Costa Mesaに勤務した後、独立、2012年9月にGardena Office, 2013年1月よりOrange County Officeを開業。NAET(アレルギー療法)公認ドクター。
この世界で生き残る②Do the Right Thing(114号掲載)
堀井岳久DC
「カイロプラクティックの学校を卒業して一人前になったら日本に帰ってきます。」という言葉を残し、アメリカへやって来てから既に17年の月日が経ちました。結果として日本に帰ってくるという約束は果たせそうにありませんが、カイロプラクターとして10年以上が経過し、日々の診療を通して少なからず地域の方々のお役に立てているのではないかと思っています。
私はカイロプラクティックを通して様々な方に出会い、学びそして成長させてもらいました。そしてそれはカイロプラクターとしてだけではなく一人の人間として大きく成長させてもらい、大変貴重な自分の財産となっています。その一つに私が学生時代に何度も通ったガンステッドセミナーのドクターアレックスの言葉があります。私は何かあるたびにこの言葉の基本を思い出し、自分をリセットして物事に取り組むようにしています。その言葉は”Do the Right Thing.”(正しいことをする)です。このとてもシンプルで皆さんにとっても当たり前なことですが、私も人間ですから意外と普段忘れてしまったり、雑音にかき消されてしまったりします。ドクターアレックスは患者さんの話やクリニック経営の話をする際にこの言葉をおっしゃっていました。一般論としてこの世には正しいも、間違ったもありません。それはその人の考え方や宗教観や哲学によって決まるからです。しかし、一般的なモラルとしてまた人間としてそしてカイロプラクターとして自分の判断で正しいことをしましょうと私は解釈して実践しています。これはアジャストメントや治療を例にとってもそうであると思います。患者さんのアジャストメントを必要としているサブラクゼーションを探し、必要としているアジャストメントを必要な方向に、そして必要な深さにセットするということだと思います。また、患者さんにとってアジャストメントが必要なければ行いませんし、他の治療が必要ならそれをすることです。
クリニックの経営者としてもそうですがリピート率や売上がどうのと考える前にまず、患者さんにとっても自分にとっても正しいことをするということです。仏教では因果応報、キリスト教では与えよさらば与えられんという言葉ある通り、人として正しいことをすればそれ以上のものが返ってきます。当たり前のことでしょうが、私は日々忘れないようにしている言葉です。
堀井岳久DC
学生時代の柔道で痛めた腰が原因でカイロプラクティックに出会い興味を持つ。大学卒業後、会社員として働くもいずれ人の役にたつ仕事をしたいと思い、柔道整復師の学校に働きながら通うもアメリカでカイロプラクティックを学びたいという気持ちが抑えきれず、2002年1月に渡米。2007年にLACCを卒業し、DCとなる。学生時代からお世話になっていたLA郊外オレンジカウンティのドクター新井のクリニックに就職し、臨床に励む。その後独立し、2015年にテキサス州ダラスに自身のクリニックを開業、現在に至る。
アメリカでの雇用(113号掲載)
新井直澄D.C. DIBAK CCSP
2002年6月に自分のオフィスをカリフォルニア州オレンジカウンティにオープンしてから早いもので16年が経とうとしています。この間に幸いオフィスは順調に伸び、現在働いている2名のD.C.を含めると過去に7名の日本人D.C.が一緒に私のオフィスで働いてくれました。その中には色々な問題があって解雇した先生もいましたが、それを含めて人を雇った経験は、私をカイロプラクターとして、そして1人の人間として大きく成長させてくれました。
アメリカにいる日本人D.C.がアソシエートドクターとして働く理由は、
1)アメリカに残るためのビザのサポートが欲しい
2)純粋に学びたい
のどちらかだと思います。どちらも追い求められるのが理想ですが、なかなか上手くいくものではありません。なぜなら、アメリカでカイロプラクターとして働くための最大の壁は就労ビザ取得ですが、就労ビザをサポートしてくれる雇用主はなかなかいません。私も卒業前、数多くのアメリカ人D.C.に履歴書を送りましたが、ビザの話をするとなかなか受け入れてもらえませんでした。私は幸運にもロサンゼルスで日本人の先生に雇ってもらうことになり、そこから就労ビザ、米国永住権取得までお世話になりましたが、ビザ取得の苦労は身に染みてわかりました。
就労ビザのこともあり、D.C.となって自分が一番働きたいオフィスで働けるわけでもありません。一方D.C.になる人は学生時代、自分がはまったテクニックを一番だと思い、卒業後もそれにこだわっていく場合が多いです。オフィス的には私と同じ治療方法で診てもらうことが一番なのですが、なかなかそうはいきません。私のところで働いた先生方もそれこそ、ガンステッド、NAET、AK、ART、DNFT、モーションパルペーションなど、全く異なるジャンルのテクニックをそれぞれ使っており、私と同じ治療をしていた訳ではありませんでした。その中で、私自身が自分のオフィスで働いてくれる先生方を私の弟子ではなく、カイロプラクティックを治療する同志である、と頭を切り替えたことで、いろいろなことを学ぶことができました。例えばガンステッドを熱心にやっている先生とは、一緒にアメリカ中を飛び回って、ガンステッドのセミナーを受け、共に学ぶというようにことで、私自身が大きく成長できたと思っています。
多くのアソシエートの先生を雇うことで私が学んだことは、様々な自分が知らないカイロプラクティックのテクニックに対して偏見を持たず、むしろそれぞれの治療法の良さを積極的に吸収できたことが大きな収穫でした。一つのテクニックだけでも極めるのは大変ですが、学んだ全てを極めてやろうという気概こそ必要ではないかと思っています。それはカイロプラクティック業界の先人たちが、まだ何もない時代に道を切り開いてくるのに費やした時間や労力に比べれば、インターネットやDVDなど、数々の先人たちの書籍に囲まれ、現代の恵まれた環境にいる私たちに出来ないことは無いと思うのです。
新井直澄(あらいなおずみ)
日本で大学卒業後会社員として働くも、自身の腰痛をきっかけにカイロに興味を持ち勢いで1996年6月アメリカに渡米。1999年12月ライフウエスト大学卒業、D.C.となる。
卒業を前にD.C.を取ったくらいでは日本に帰ってもとてもじゃないけど通用しないということを感じアメリカで経験を積むことを選択。LAの本間先生のオフィスに就職。その後2002年6月に、LA郊外オレンジカウンティに自身のクリニックを開業後。
2014年、日本人で初めてApplied Kinesilology (AK) の認定資格コースを教えることが出来るDIBAK (Dipomate of Internatinal Borad of Applied Kinesiology)を取得。