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施術者のための治療哲学
保井 志之DC
- 機械論から有機論へのパラダイムシフト(138号掲載)
- ノーシーボ効果(逆暗示効果)を検査し、治療する(137号掲載)
- サブラクセーションの誤謬と機械構造論の限界(136号掲載)
- 機械構造論の「圧迫説」がもたらす影響(135号掲載)
- 機械構造論の影響を受けた柔整時代(134号掲載)
- 西洋医学と代替医療の対比から「治療家の本質」を明確に(133号掲載)
- 「なぜ、治るのか、治らないのか」(治療の本質)を追求する(132号掲載)
- パーマー大学でカイロプラクティック哲学を学ぶ(131号掲載)
機械論から有機論へのパラダイムシフト
筆者は、本質的に治せる治療家が全国に増えることを願い、「機械構造論」と「有機生命論」の差異にあえて焦点を当てている。臨床初期の整骨院での経験では、機械構造論に基づく治療法が中心であり、「なぜ、治るのか、治らないのか」という深い思考に至ることはなかった。
特に、慢性症状の改善を目指し臨床経験が増すにつれて悩みが深まる時期があった。そのような時期に機械構造論と有機生命論の違いを考察する思想に触れる機会を得て、多くの問題に対する新たな視点を得たのである。
もし臨床現場で骨折や脱臼、捻挫などの新鮮外傷患者が多く来院する治療院であったなら、慢性症状の患者に悩むことも少なく、「なぜ、治るか、治らないのか」という深い治療哲学について考える機会もなかったかもしれない。
実際に、多くの治療院に来院する患者は、西洋医学では原因が特定できない慢性症状を抱えている。こうした患者を支援できなければ、治療家としての価値は失われることは明白である。この現実に直面する中で、筆者なりの治療哲学が確立されてきた。
言い換えれば、慢性症状の患者を真剣に治療しようとする意識がなければ、そのような思想を持つこともなければ、持つ必要もなかっただろう。慢性症状を抱える患者の治療に深く取り組むことが、機械論から有機論へのシフトを可能にし、問題意識を生み出したのである。
また、単なる理論だけで治療家の思想が変わることは少ないのではないか。今までさまざまな治療で治らなかった慢性症状の患者が、実際の臨床現場で改善するという体験を積み重ねることで、治療哲学との整合性が強化され、理論と結果、そしてその背景にある哲学が一致するようになる。前述した圧迫説などは、筆者にとって「結果」が伴わない「理論」であり、机上の空論に過ぎなかった。
やはり、臨床に基づく経験体験を踏まえなければ、治療哲学は自分の血肉にはならない。筆者が整骨院での修業時代には、生粋の機械構造論者であった。いわゆる「関節のズレ」が痛みを生じさせ、「関節を合わせる技法」があると信じ、探究しながらカイロプラクティックの道を選んだ経緯がある。
例えば、仙腸関節痛に対しても、仙腸関節を微妙に合わせて調整する技法があり、正常に合わせることで痛みが改善されるという機械論の手技療法があると信じていた。しかし、それが大きな誤解であることに気づいたのである。
おそらく、熟練した「関節を合わせる技法」があると信じている機械構造論の施術者は少なくないが、この思想に対するパラダイムシフトを実際の臨床で症状改善の治療効果を通じて体験することが、最も早い道であろう。
筆者がパーマーカイロプラクティック大学在学中には、カイロプラクティックの多様なテクニックに触れる機会があった。パーマー大学はカイロプラクティック発祥の地であり、多くのカイロプラクティックテクニックの創始者が講演に訪れていたのである。キャンパス外のセミナーにも積極的に参加し、創始者から直接指導を受ける機会も多かった。
アクティベータ・メソッド(AM)もその一つであり、大学内の選択科目でアドバンスコースまで受講した。当初は、表面的な手法に視点が注がれがちで、その技法の意味や背景にある哲学について深く考えることはなかった。特に、アクティベータ・メソッドは、臨床経験を通じて機械構造論から有機生命論への理解を深めるきっかけとなったのである。
ノーシーボ効果(逆暗示効果)を検査し、治療する
代替医療の分野に限らず、現代医療でも「暗示効果」は治療効果に影響を与えている。ある信念や期待が「思い込み」として機能することは一般的に知られており、患者が治療に対して持つポジティブな「思い込み」はプラセボ効果と呼ばれ、逆にネガティブな「思い込み」はノーシーボ効果と呼ばれている。
このノーシーボ効果は実際の体調不良にもつながることがあり、「気のせい」「気持ちの持ちよう」などと軽視されがちであるが、「なぜ治るのか、治らないのか」を深く探求する治療家にとっては重要な要因である。「暗示効果」への理解が不十分なままで治療を行うことは、治療の最大限の効果を引き出すためにさらなる探求が必要であることを示唆している。
治療効果を制限する原因の一つがノーシーボ効果(逆暗示効果)であり、この効果は、腰痛や関節痛など比較的治しやすい症状においても、治癒力にブレーキをかけ、自身の治癒力を制限する「思い込み」を引き起こす。しかし、「治せない患者を思い込みのせいだと単純に解釈してほしくない」という点を明確にしておきたい。
筆者は、心身条件反射療法(PCRT)による臨床経験を通じて、「思い込み」による誤作動を客観的に検査・調整することでノーシーボ効果が絡む症状をその場で改善してきた実績に基づき述べている。症状を引き起こす「思い込み」を、PCRTでは「意味記憶」と呼び、この意味記憶による誤作動の記憶を書き換える調整を行うことで本質的な症状改善が得られるという多くの実績に基づく見解である。
前回のコラムで紹介した「圧迫説」による誤った信念(思い込み)で、腰痛などが慢性化している患者も少なくない。こうした誤作動の記憶を調整することで本質的な改善が期待される。
例えば、ある治療家の事例を紹介する。彼は前屈時の下腹部痛を訴えていたが、PCRTで検査を進めると、ベルトでズボンを圧迫する刺激が条件づけられていることが判明した。さらに探ると、彼は以前参加したカイロプラクティックのセミナーで「圧迫自体が身体に悪い」と学習しており、その無意識的な暗示が身体に影響を及ぼしていた。この条件づけ(意味記憶)を調整することで、誤作動反応は消失し、前屈時の痛みも改善された。
「思い込み」の影響は、腰痛や関節痛といった筋骨格系症状に限らず、自律神経系やアレルギー系の症状にも及んでいる。筆者も治療家としての道を歩み始めた当初は、「思い込み」を症状の原因として捉えることはほとんどなく、ましてや「思い込み」が症状に影響を及ぼしているかどうかの検査法や調整法にまで考えが及んでいなかった。
しかし、臨床経験を積む中で、「なぜ治るのか、治らないのか」を真剣に探求し続けることで、こうした理解に至った。初学者には理解が難しい内容かもしれないが、同じように探求し続ける治療家にとっては共感いただける内容であると期待している。また、ノーシーボ効果が及ぼす影響を検査し、「思い込み」による誤作動記憶を治療できる治療家が増えることを願っている。
サブラクセーションの誤謬と機械構造論の限界
カイロプラクティック業界や一般に広まっているサブラクセーションの「圧迫説」は、理論的にはもっともらしく聞こえるものの、臨床現場では辻褄が合わないことがしばしばある。もし本当に背骨の歪みが神経を圧迫しているのであれば、神経圧迫を解放するためには強力な圧で背骨を移動させる必要があるだろう。しかし、これは背骨に相当な衝撃を与えることになる。この点を考慮すると、サブラクセーションの「圧迫説」に基づく矯正は、危険な施術であり、患者に誤解を招きかねないと言える。
過去には、別の治療院で「ボキッ」と背骨を矯正されたのちに症状が悪化した患者が、背骨を正しい位置に戻してほしいと依頼してきた事例がある。その治療院の施術者は「圧迫説」を信じていた様子で、背骨を「ボキッ」と鳴らして症状の改善を試みたが、症状は改善せず、患者はかえって悪化したという訴えだった。患者は、背骨が「ボキッ」と鳴ったことで誤った位置にズレたと思い込んだ可能性がある。このような事例は当院では稀だが、国内全体で見れば、「圧迫説」に基づいたカイロプラクティックや整体の矯正を受けて背骨が誤った位置に矯正され、症状が悪化したと訴える患者は少なくないかもしれない。
たしかに、アジャストメントの技術が未熟であったり、荒っぽいことによる弊害も考えられるが、「圧迫説」という機械構造論の思想でアジャストメントを行うこと自体が問題の根本にあると考えられる。機械構造論の圧迫説を信じることにより、本質的な原因を見過ごし、本来改善されるべき症状が治らないばかりか、施術による被害者を生むことは、社会的にも問題である。圧迫説を信じる施術者には申し訳ないが、この理論は施術業界、さらには医療全体において損失であると私は考える。圧迫説を簡単に説明すると、神経を圧迫している背骨をA地点からB地点へ移動させることが矯正の目的であるが、人間を機械のように考える機械構造論では理にかなっているように見えても、生きた人間の身体にその理論を適用するのは無理がある。
背骨は、無数の靭帯や筋肉が付着し、他の背骨や軟部組織と協調しながら絶妙なバランスを維持している。アジャストメントにより、瞬時に背骨がわずかに動くことはあっても、強靭な靭帯や筋肉、その他の軟部組織によって支えられているため、関節構造は元の位置に戻るようになっている。例えば、手首を強く叩いても、関節がズレたままの状態になることはない。背骨を取り巻く軟部組織(ゴムバンド)が断裂しない限り、背骨がA地点からB地点へ移動して固定されることはあり得ない。ただし、スポーツ障害や事故などで強い外力が加わった場合、靭帯や関節包が損傷し、関節を構成する骨がズレることはある。しかし、これは「脱臼」と呼ばれる器質的な外傷であり、アジャストメントによる背骨の脱臼は極めて強い外力が加わらない限り発生しない。
関節を鳴らす「ボキッ」という音は、関節がズレたかのような感覚を与え、多くの誤解を生じさせている。この音が治療効果をもたらす「暗示効果」を引き出すこともあるかもしれないが、これは本質的な理論ではなく、多くの誤解を招く恐れがある。施術者は、臨床的に整合性があり、本質的な理論に基づいたアジャストメントを行うべきであり、それには真の治療哲学の習得が必要である。
機械構造論の「圧迫説」がもたらす影響
「サブラクセーション」の理論を大きく分けると「圧迫説」と「反射説」があると筆者は考えている。圧迫説の分かりやすい説明に「ホース理論」というものがある。神経伝達をホースの中を流れる水流に例え、ホースを外から圧迫すると、水流が阻害されるように、神経の流れが背骨のズレで圧迫されると神経伝達が阻害されて、その末端に分布している臓器などの働きが悪くなるという理論である。
「なるほど」とうなずきやすい説明であるが、この理論を人間の身体、特に神経生理学的、あるいは生命論的に当てはめるのには無理がある。西洋医学においても根拠のない機械構造論の圧迫説を信奉している傾向がある。
医薬品のテレビ広告でも「坐骨神経痛は神経の圧迫や変形による……」と言いながら、圧迫を取り除く手術ではなく薬の処方を推奨している。一般の人々はその広告を見て、薬を飲んで坐骨神経痛を治そうとするだろう。
特に施術業界の治療者の多くが、圧迫説を神経痛、関節痛の原因に当てはめて、神経伝達の圧迫を取り除くために背骨を矯正(アジャストメント)する。脊髄から枝分かれする神経根が椎間孔でヘルニアや椎骨の変形などで圧迫されると、主に麻痺症状が生じ、二次的に痛みや痺れ、運動障害を引き起こすと考えられている。
しかし、麻痺症状がなくても、痛みなどの症状は、脊椎のズレによる神経の圧迫が原因であると思い込んでいる施術者は多いのではなかろうか。
腰部脊椎の画像診断などでかなりの変形があるような患者でも、無症状の患者がいるということは、20年ほど前から科学的な研究でも明らかになっており、背骨のズレが神経を圧迫して、痛みや痺れなどの原因になっているという理論は、信憑性がなくなっているのは多くの治療者が周知していることだろう。
以前は、カイロプラクティックといえば、一般的には「ボキッ」と背骨を矯正して、背骨をまっすぐにするという認識が強く、機械構造論のカイロプラクターは神経の圧迫を取り除くために「ボキッ」と背骨を矯正する。
この矯正で症状が改善されることは多々あるが、改善されるメカニズムは、背骨のズレが矯正されて圧迫が取り除かれたわけではない。アジャストメントによる刺激振動で誤作動の神経反射がリセットされて、神経機能が正常に働き、筋肉系をはじめとする軟部組織が正常化するというのが本質であり、その結果として、背骨も本来あるべき位置に修正されるというのが改善のメカニズムだと筆者は考えており、長年の臨床経験においてもつじつまが合う。
症状を改善するためには、本来であれば神経機能の誤作動を調整しなくてはならないのに、圧迫している背骨のズレを矯正するという、機械仕掛けの歯車を修理するような目的になると、的外れな矯正をしかねない。
例えば、レントゲン画像で線引きをして、歪みを分析して、メジャーのサブラクセーションを判断し、特定の背骨を矯正するわけだが、果たして、その矯正で神経圧迫が改善されると言い切れるのか? その線引きによる背骨の配置分析は「結果」であり、「原因」とは言いがたいのではないか?
筆者は長年の臨床経験を通じて、毎回の施術において治療前と治療後の検査結果を客観的に評価している。その検証事実に基づくと、矯正刺激による神経反射効果で誤作動の受容器が活性化されて、神経系や筋肉系が正常に働き、それに伴って背骨が落ち着くところに落ち着いて、脊柱の並びもバランスが取れるという理論が当てはめられる。これはサブラクセーションの「反射説」であり、臨床的につじつまが合うと筆者は考える。
機械構造論の影響を受けた柔整時代
代替医療の施術者の多くが、慢性症状の患者を対象に施術を施しているにもかかわらず、機械構造論でアプローチしているがゆえに、治療効果が発揮されていない現状があるのではなかろうか。筆者も整骨院で修行させていただいていた当時は、慢性腰痛は背骨の歪みで生じているのだから、背骨の歪みを手技で矯正すれば慢性症状は治るだろうと真剣に考えていた。振り返ると、その考え方、概念はまさに機械構造論の思想である。その概念を誰かに教えてもらったわけではない。当時では限られていたカイロプラクティックの書籍などを読んではいたが、恐らく知らず知らずのうちにそのような概念が無意識的に固まっていたように思う。
40年ほど前になるが、整骨院修業時代、院長室の検査ベッドの上に、背骨の歪みを表したポスターが貼られていた。今でもそのポスターの内容は鮮明に覚えているが、そのポスターの画像の記憶はインパクトがあったのではないかと思う。ポスターで強調されていたのは、背骨のズレが神経を圧迫して、末端の機能が阻害されるイメージの内容だった。カイロプラクティックで最も強調されていた「サブラクセーション」の「圧迫説」を分かりやすく示したこのポスターによって、恐らく知らず知らずのうちに、記憶のプライミング効果、あるいはサブリミナル効果で、背骨の歪みが神経を圧迫して慢性症状を引き起こすと思い込んだのだろう。
また、当時の整骨院では、毎日のように新鮮外傷の患者が来院され、レントゲン写真も数多く見させていただいた。骨折、脱臼の整復術や包帯法の技法は一流レベルだった。芸術的で、美しく、機能的だったと筆者の心に残っている。上腕骨外顆骨折、橈骨遠位端骨折、上腕骨近位端骨折、鎖骨骨折、肩関節脱臼、手関節脱臼などの患者さんも救急で来院されることもあり、ベテランの先輩方は手技で骨折や脱臼を整復していた。筆者も小児の肘内障の整復を経験させていただいたこともあり、その徒手整復術に魅了され慢性腰痛や頚部痛、肩こりなども徒手整復術で治せないものかと考えはじめた。
当時、その整骨院では全国的にも大きな研究会を主催しており、主な研究テーマが無血治療法(徒手整復術)で、整形外科医の先生とも連携をとりながら柔道整復師業界を牽引していた。しかし、それは新鮮外傷の徒手整復術であり、慢性腰痛などの徒手整復術の研究テーマはほとんどなかった。それがゆえに、腰痛などの関節の痛みも、微妙なズレを矯正する徒手整復術で治るはずだと筆者は真剣に考えていた。今から考えると極端な機械構造論の思想にどっぷり浸かっていた。
そのような微妙なズレを治すために徒手療法があるに違いないという思いを抱いて、渡米してカイロプラクティック大学へ入学したのが筆者である。カイロ大学留学のおもな目的が手技療法の習得なので、テクニックセミナーは貪欲に学んだ。キャンパス外で行われていたテクニックセミナーにもできる限り参加していた。さまざまなテクニックを学んでいると、背骨や四肢の関節を「ボキッ」と鳴らすこと自体難しいとは思わなくなった。むしろ、症状の原因とされる「サブラクセーション」を分析する方法がさまざまであり、その検査、分析法が大切であると段々と認識しはじめていた。
西洋医学と代替医療の対比から「治療家の本質」を明確に
「治療哲学」という言葉には広い意味がある。広義では、西洋医学による治療も含まれるが、西洋医学をバックグラウンドにした臨床家から観た治療哲学と、筆者のように、鍼灸、柔整、カイロプラクティックと代替医療を長年経験して培った臨床家から観た治療哲学とは異なるだろう。特に、「施術者のための治療哲学」というテーマにおいて、西洋医学の治療と対比しながら説明することで、施術者が行う「治療」または「施術」の本質がわかりやすくなるのではないかと考えている。
筆者は20年以上前から「機械構造論」と「有機生命論」を対比しながら、治療哲学についてセミナーや文章で解説してきた。すべての医療を二項対立的に分けることはできないが、その哲学や思想の違いを理解することは治療者にとって重要であり、治療効果にも影響を与えると考えている。
医療従事者であれば、西洋医学と東洋医学を対比した論説をご存知の方も多いだろう。1960年代から1970年代にかけて、現代の通常医療である西洋医学にとらわれないホリスティックなアプローチや、伝統的な東洋医学や自然療法の要素を取り入れた治療法が注目され、代替医療という概念が広まった。代替医療は、西洋医学を補完または代替するものであり、さまざまな医療や療法を含んでいる。その中で、西洋医学思想を受け継いだ「機械構造論」と東洋医学思想を受け継いだ「有機生命論」を哲学的に要約し、対比すると以下のような特徴がある。
機械構造論的医療と有機生命論的医療の治療哲学的要約の対比
機械構造論的医療 | 有機生命論的医療 | |
治療目的 | 体は複雑な機械のようなものであり、病気はその機械の不調によって引き起こされると考える。したがって、治療の目的は機械の正常な機能を回復させることである。 | 体は自然の生命力とバランスによって維持される有機的な生命体であり、病気はその生命力とバランスの崩れによって引き起こされると考える。したがって、治療の目的は生命力と生命エネルギーバランスを回復させることである。 |
治療のアプローチ | 病気の原因は特定の器官や組織の機能の低下や損傷によると考える。したがって、治療のアプローチは病気の原因となっている異常な部位を修復または補完することに重点を置く。 | 病気の原因は生体の生命エネルギーの阻害や身体の機能的調和の欠如によると考える。したがって、治療のアプローチは生体エネルギーの流れの促進や調和をもたらすことに重点を置く。 |
分析と評価 | 診断と治療は科学的な根拠に基づいて行われるべきである。病歴や症状の詳細な分析、医学的検査、画像診断などの方法を用いて、患者の状態を正確に把握し、最適な治療法を選択する。 | 治療は個別の患者の状態や症状を総合的に評価することから始まる。病歴、症状、身体の生体エネルギーパターンなどの情報を考慮し、個別のアプローチや自然療法を選択する。 |
治療手段 | 治療はしばしば症状の緩和や病気の進行を遅らせることに焦点を当てる。薬物療法、手術、物理療法などの従来の医学的なアプローチが一般的に使用される。 | 治療は患者の自己治癒力を引き出すことに焦点を当てる。カイロプラクティック、鍼灸、漢方薬、アーユルヴェーダ、ホメオパシーなど、伝統的な東洋医学や自然療法が一般的に使用される。 |
「医療」という広範な分野において、「機械構造論」と「有機生命論」は共に重要な概念である。しかし、接骨院、鍼灸院、整体、カイロプラクティックなどの代替医療の施術者の多くは、専門学校や大学で教育を受けているが、その教育の多くは機械構造論に基づいた医療から始まり、本来、治療現場で必要な有機生命論の実践的な治療哲学教育は受けていない現実がある。代替医療の学校教育は、西洋医学の基礎教育から派生しており、そこから各専門分野を学ぶことになる。
例えば、柔道整復師は日本の代替医療の中でも機械構造論の哲学が色濃く反映されており、その概念は非常に重要であるが、実際の治療院では、骨折や脱臼などの新鮮な外傷ではなく、さまざまな慢性的な症状を抱えた患者が多く来院することが一般的であり、機械構造論の概念では役に立たない症状が多いのではなかろうか。もしも、骨折や脱臼などの新鮮外傷の患者に遭遇した際、たとえ治療者に機械構造論の知識や経験があったとしても、最先端の西洋医学の治療が優先される必要があるだろう。
筆者が整骨院で修行していた頃は、骨折や脱臼などの新鮮な外傷の患者を診る機会が比較的多く、骨折や脱臼の整復術の技法の研究も脚光を浴びていた。しかしながら、現在の医療現場では新鮮な外傷の患者の多くが、まず病院を受診するというケースがほとんどである。骨折や脱臼などの構造的な損傷には、整復術や外科的手術による機械構造論に基づいた治療が必要となるのは至極当然なこと。しかし、急性期の捻挫や関節痛、あるいはさまざまな慢性的な症状には、目には見えない生体の誤作動信号が隠れており、有機生命論の概念に基づいた治療が求められる。
機械構造論と有機生命論の両方は医療現場で欠かせない概念であるが、症状に応じて柔軟に使い分けてアプローチしなければ、治るべき症状も治りにくくなってしまう。一辺倒な手法だけでなく、「なぜ、その検査を行うのか、なぜ、その施術を行うのか」など、臨床現場において治療哲学を実践することで、治療家の本質を見出すことができるだろう。
「なぜ、治るのか、治らないのか」(治療の本質)を追求する
筆者は鍼灸短大を卒業後、柔道整復師という職業が日本で始まったばかりの時代に開業された先生のところで住み込みで修行させていただいた。毎日、200人ほどの患者さんが来院する評判のよい整骨院だった。今ではありえないが、当時は暗黙の了解で骨折の疑いのある患者さんは毎日のようにレントゲン撮影を行っていた。臨床だけでなく学術的な研鑽も積み重ね、定期的な学術大会では骨折や脱臼の症例報告が脚光を浴びていた。先輩方はそれぞれに「ほねつぎ」としてのプライドを持ち勢いを感じた。その一方で、だんだんとレントゲン撮影の規制も厳しくなり、新鮮外傷の患者もそれに伴って減少傾向にあった。そのような柔整業界全体が大きな変革期を迎えていた時代の真っ只中で、筆者は骨折や脱臼が瞬時に整復されるように、腰痛も瞬時に整復されないものかと試行錯誤していた。そして、さまざまな手技療法に関する文献を調べて悶々としていたところ、ご縁に恵まれて導かれるようにパーマー大学への道が開けた。
「手技療法を極めたい」という大それたテーマで希望を抱き米国へ旅立った。今思うと、治療哲学に関心を寄せたきっかけがそこにあり、徒手療法の本質への追求が始まっていた。また、「カイロプラクティックの手技で、生体に何が起きているのか」ということに関しては、パーマー大学時代に密かに好奇心を持ち続けていた。その好奇心が実践的治療哲学への関心にもつながったのだろうと過去を振り返る。しかし、パーマー大学の前半は、学業に必死についていくことの方が最重要課題で、臨床や治療哲学のことを考えるゆとりはほとんどなかった。生化学や微生物学など、臨床にはほとんど関係ないと思われる学問も履修単位を落とさないために必死に勉強した。大学の後半から臨床のことを考えるゆとりが少しずつできた。大学外で行われるセミナーもできる限り参加するようになった。
大学のクリニックで研修するようになってからは、徐々に臨床やテクニックについて考察を深めた。同級生たちともさまざまなカイロプラクティック・テクニックについて議論を交わした。しかし、本格的に「なぜ、治るのか、治らないのか」(治療の本質)を追求するようになったのは、開業して実際の患者さんを数多くみさせていただくようになってからである。「机上の空論」という言葉があるが、やはり、臨床を通じてさまざまなタイプの患者や症状に直接的に触れる経験や体験を積んでからでないと分からないことがあるということをしみじみ痛感した。今だから言えることだが、若い頃はある程度分かったつもりになっていた。今でも慢心しないように、まだまだ道半ばで未知なる課題がたくさんあると自戒する毎日である。
筆者は大学で哲学を専攻した専門家ではないが、少し哲学について触れてみたい。哲学は英語で「フィロソフィー」という。フィロソフィーの語源をたどると、古典ギリシア語の「フィロソフィア」から由来している。フィロソフィアは「愛」を意味する名詞「フィロス」と、「知」を意味する「ソフィア」が結び合わさったもので、その合成語である「フィロソフィア」は「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められているという。筆者にとって、「哲学」は「智を愛する」という高尚な意味合いには感じられないが、「知」=「本質」という解釈をすれば、「本質(知)を追求する」という意味合いはしっくりくる。
哲学者といえば、ギリシャのソクラテス、プラトン、ドイツのカント、ハイデッカー、インドの釈迦、中国では春秋戦国時代に諸子百家の孔子、老子、壮子、孟子、儒家、墨家、日本では西田幾多郎などが知られている。彼らは哲学者であり思想家でもある。ちなみに哲学者が「Aとは何か」「AとはBである」などのように「~とは~である」に軸足を置いて真実を探求する一方で、思想家は「Aはどうあるべきか」「AはBであるべきだ」など「~は~であるべき」に軸足を置いた主張を展開するという意味で異なる。しかし、「本質を追求する」という意味において、哲学も思想も同義的に筆者は捉えている。
我々が施す「徒手療法」ということ自体の概念が幅広く、その本質を追求する際、健康状態から不健康(不調)、病気、死に至るまでの過程において、どのレベルにおいての治療なのか、ということも大きなテーマになる。また、手技的な技法の哲学、思想以外にも患者との関係性、コミュニケーションにおける哲学、倫理なども広義の意味において、「なぜ、治るのか、治らないのか」、「徒手療法とは何か」に関する筆者なりの考えを幅広く本連載で述べていきたいと考えている。
パーマー大学でカイロプラクティック哲学を学ぶ
「治療哲学」・・・それが施術者にとってどんな意味があるのだろうか、と疑問に感じる方も多いだろう。「哲学」というと、何となく堅苦しく感じられるかもしれない。そもそも、「治療哲学」という学問自体が、日本の学校教育にほとんど存在していないため、「施術者のための治療哲学」というタイトルを目にしても、ピンとこないのではなかろうか。筆者が卒業した鍼灸や柔整の学校では「哲学」のクラスはなかったが、米国、アイオワ州にあるパーマー・カイロプラクティック大学では、「哲学」のクラスがあった。英語では「フィロソフィー」と呼ばれたクラスだった。卒業したパーマー大学のカリキュラムは、10学期制(三年半)。1学期目の授業の合計時間は約450時間あり、解剖学、神経学、神経生理学、発生学、有機化学などのクラスに哲学のクラスがあった。哲学クラスは1学期だけではなかった。最初の1学期目はプリンシパル(哲学の概要)、2学期目は倫理、4学期目はカイロプラクティックの歴史、6学期目はサブラクセーション・コンプレックスと健康、8学期目はプリンシパルとプラクティス、そして、最後の9学期では哲学と自己啓発のクラスがあった。これらの哲学の合計授業時間は210時間に及んだ。全科目時間の合計が4620時間なので、全カリキュラムの中で、4.5%が哲学のクラスということである。
パーマー大学の教育理念に、「哲学」、「アート」、「サイエンス」というテーマを掲げていることからも分かるように、「哲学」を重んじるカイロプラクティック大学の風土があった。周知のとおり、パーマー大学はカイロプラクティック発祥の大学である。カイロプラクティックが始まって以来、今年で127年になる。ここまでカイロプラクティックが発展してきた背景には前述の教育理念が土台となっており、特に「哲学」はカイロプラクティックのアイデンティティーに欠かせない学問領域だったといわれている。今となってはそのことがよくわかるが、恥ずかしながら、当時の留学生にとって、そのような教育理念、「哲学」、「アート」、「サイエンス」などという観念的な言葉にはあまり興味が持てなかった。英語というハンディーを抱えながら、過酷な大学の授業についていくのが精一杯だった。特に、1学期目の哲学のクラスには苦労した。哲学部の教授は、後にパーマー大学の学長になる方だったので、英語が達者であれば興味深い講義だったのではなかろうか。特に哲学のクラスは、ついていくのはとても大変だった記憶が優先して、具体的な内容までは覚えていない。とはいえ、本連載にあたって、大学で学んだ哲学の内容のことをお伝えするつもりではないので心配しないでいただきたい。
筆者はセミナー講演や業界紙やブログなどを通じて、幅広い角度からカイロプラクティックをはじめとする施術法に関する臨床、研究、哲学や思想、歴史などさまざまな情報を発信してきた。そのような情報発信の中でも治療哲学や治療概念、思想に関する文章は多かったのではなかろうか。今回はカイロタイムズ様を通じて、「施術者のための治療哲学」という大きなテーマで筆者なりの考えを綴らせていただくことになった。筆者自身が、鍼灸短大、柔整専門学校、カイロプラクティック大学などで教育を受け、四十年に渡って代替医療と呼ばれる施術業界にどっぷり浸かっている。学術的哲学というよりも、実体験からの経験や体験も踏まえて、施術者、治療家の視点で、施術とは何か?治療とは何か?治るとはどういうことなのか?なぜ、人は治るのか?治らないのか?施術者、治療家のアイデンティティーなどさまざまな角度から実践的哲学ともいうべき話を進めさせていただく。読者の方が少しでも施術者、治療家として誇りに思えるような琴線に触れることができれば、筆者にとっては密かな喜びとなるだろう。